「力士の名で一番いいのは何だ」
土方巽さんにそう訊かれて、私は反射的に「星甲(ほしかぶと)」と答えていた。
「星甲か。それもいいなあ。でも、俺は新海(しんかい)だ」
不世出の舞踊家だった土方さんはそう言って笑った。50年ほど前のことだ。あのときの笑顔と声が、眼と耳にまとわりついている。もっとディープな会話を交わした記憶もあるのだが、自分がちょっとだけ褒められた気がして嬉しかったせいか、あの声は繰り返し思い出す。
思い出すと、私は『病める舞姫』(白水社)を開く。すると、土方さんの肉声が聞こえてくる。《鉛の玉や紐は休んだ振りをしている》とか、《人間、追いつめられれば、からだだけで密談するようになる》とかいった言葉が、惜し気もなく振る舞われる書物だ。《妖しい虹を眼に流している男が、まわりの人に嫌われながら現われてくることがあった》などという一節も。
もう少し正確に言おう。土方さんは、そういう言葉ばかりを採集し、この本を書き上げている。出来合いの記号を排し、身の安全や暗黙の諒解を保証してくれる仲間うちの共通語を退け、その一方で自身の感性や生理にあぐらをかかない言葉。
まとめてしまえば、文章家の憲法第一条と聞こえるだろうが、この本を初めて眼にしたときは、思わず息を呑んだ。脈もいくらか速くなっていたような気がする。
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source : 文藝春秋 2023年5月号