小泉信三 息子の身代わりと可愛がった孫を失って受洗

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小泉信三(こいずみしんぞう)(1888―1966)は、東京三田生まれ。父信吉(のぶきち)は福沢諭吉の高弟だった。慶大卒業後、母校で経済学、社会思想などを教える。マルクスの価値論を批判し櫛田民蔵らと激しい論争をおこなうが、教え子の一人でのちにマルクス主義にもとづく名著『日本資本主義発達史』を著した野呂栄太郎には、温かい態度で接した。昭和8(1933)年、慶応義塾塾長となる。昭和21(1946)年東宮参与となり、皇太子に『ジョージ5世伝』や福沢の『帝室論』などを講じる。文化勲章受章。秋山加代(あきやまかよ)さんは長女。随筆家。

 昭和33年、東宮参与だった父は皇太子妃決定のために奔走していますが、家族の前では大石内蔵助となって、お妃選びの秘密は固く守り続けていました。

 家族は「何か変だぞ」と薄々感じていましたが、公私の区別に厳格な父は何も教えてくれません。日頃はすきだらけの父も、お妃選びは慎重でした。

 御婚約決定の瞬間まで、父は神経を張り詰めていました。侍従さんが父を訪ねてこられたとき、たまたま里帰りしていた私が部屋にお茶を運んだのですが、ドアを開けたとたん2人はぴたりと沈黙してしまいました。その沈黙に圧倒され、逃げるように部屋を出たことがあります。

 お妃候補にあがったかたのプライバシーを守るため、父は新聞社や報道関係を回って取材協定を頼んでいます。そのことは後で新聞を見て知りました。

 11月27日、私は関西で御婚約成立の発表を知りました。皇太子妃が決まるまで、秘密厳守のために神経を使い過ぎた父は、肝臓を少し悪くしました。美智子様のお名前はそのとき初めて伺いました。

小泉信三 ©文藝春秋

 もともと皇室とは御縁のなかった父は、田島道治宮内庁長官から皇太子殿下の御教育係を依頼されても、固辞し続けていました。田島長官は十何回か説得に来訪されています。その熱意に動かされ、父は東宮参与の役を引き受けることにしたようです。

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source : 文藝春秋 1989年9月号

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