「日本人としてのぼくは、どこの国よりも、日本が大好きである」
昭和の日本を撮り続けた写真家・土門拳(どもんけん)(1909―1990)。戦前・戦後の光と影にリアリズム写真で肉迫し、病に倒れて後も不屈の精神で伝統美を凝視した。代表作『古寺巡礼』の撮影助手を12年間にわたって務めた愛弟子の写真家、藤森武(ふじもりたけし)氏が「写真の鬼」を振り返る。
僕が土門先生に弟子入りしたのは、1962(昭和37)年、写真大学2年生のときでした。先生はその2年前に脳出血で倒れており右手が痺れる後遺症があったので、35ミリカメラの手持ち撮影はしんどいということで、当時は大型カメラでの撮影に切り替えていました。作品でいうと、ライフワークである『古寺巡礼』の撮影に取りかかっていた時期です。

土門拳といえば既に日本一の写真家でしたから、僕にとっては天皇陛下よりも偉い存在。そのうえ、寡黙で強面、人見知り、鋭い眼光でギロリと睨む。撮影になると被写体にのめり込み、いっそう無口になりますから、弟子は先を読んで行動しないといけない。「一を聞いて十を知る」ではなく、先生の場合は「一も聞かずに十を知れ」。無理ですよ(笑)。最初の半年は「バカたれ!」と怒られっ放しで、名前も呼んでもらえなかった。怒る場合も当然口より手が早い。それこそ土門の“拳骨”で、よくコツンと殴られたもんです。
でも、撮影が無事に終わると、食事中に冗談を言ったり、帰りの車中で流行歌を唄ったり。大の音痴だから、何の歌かまったくわからないんですけどね(笑)。素顔は寂しがり屋で、何しろ一人が嫌い。出張では、寝るのも、風呂も、食事も一人じゃダメ。脳出血の後遺症もあったので、着るものを揃えたり、靴を履かせたり、移動中に右手をマッサージしたり、まるで親子でした。
晩年の大作『古寺巡礼』全5集の撮影助手をできたのは、本当に貴重な経験でした。当時はストロボも、ポラロイドもない時代。ほぼ真っ暗な御堂の中で仏像を撮影するのは本当に難しかった。露出計の針さえ振れない暗さになると勘だけが頼み。土門先生は深い絞りにこだわって4×5カメラを最小絞りギリギリまで絞り込むので、かなりの長時間露光が必要でした。10分以上は当たり前、1時間シャッターを開け放しのときもありました。でも、この長時間露光の効果もあって、「土門カラー」と呼ばれる緑みを帯びた独特の色合いが生まれたんです。
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source : 文藝春秋 2013年1月号

