日本史や世界史は、高校で概論中の概論を学ぶだけでも1年ないし2年かかる。だから歴史小説を書く作家も、A誌には古代史ものを、B誌には戦国ものを、C誌には幕末ものを並行連載する、というわけにはなかなかゆかない。作家はとりあえずある時代に分け入ってその時代に生きた人々の個性を描き出し、それから隣接する時代に視線を移す、という段取りを何度も踏んで作品世界をひろく豊かなものにしてゆくからだ。

　司馬遼太郎さんもそのような段取りを踏みながら成長し、ついに大作家、国民作家と呼ばれるにふさわしい足跡を文学史に刻んだ人である。これほど多く代表作と形容すべき作品を残した作家も珍しいが、特にその幕末維新ものを愛するファンは少なくない。『酔って候』『世に棲む日日』『燃えよ剣』『竜馬がゆく』と読んでゆけば、尊王攘夷派の人々の胸の思いも佐幕派の剣士の気持も人体の精密な解剖図を見せられたかのごとくすべてわかった、という気分になれるからだ。

　上記の作品系列につづいて『翔ぶが如く』『坂の上の雲』と読みすすめれば、読者は名教授の名口調に載せられて江戸と明治のふたつの時代が頭に入った学生に無限に近づく。

　司馬さんには『以下、無用のことながら』『余話として』というエッセイ集もあることはよく知られていようが、司馬さんの名口調はどうも、並の作家ならストーリー展開のスピードを落としてしまうことを恐れて割愛しがちな余話や余談をも巧みに取りこむことに根差しているようだ。志賀直哉流の素っ気ない文体に較べれば、これは一種の饒舌体といってよい。だが、その饒舌体が耳障りなのではなく、読者の知性に快く響くところに司馬さんならではの芸がある。

　それにしても司馬さんは、どのようにしてこのような文体を身につけたのか。もう四半世紀も前、父親の本棚から司馬作品を抜き取っては読むうちに、私はそんなことを考えたものだった。その私を当時もっとも驚かせてくれたのは、『国盗り物語』である。斎藤道三と織田信長を1セットとして戦国を把握するマクロな視点は、今も強烈に印象に残っている。

　しかし、私が「ははァ、司馬さんのヘソはこの辺だな」と感じたのは、『国盗り物語』につづいて『豊臣家の人々』を読んだときだった。前者が道三―信長を縦にならべて描いた2部構成の長編とすると、後者は豊臣秀次、小早川秀秋、宇喜多秀家、北ノ政所、豊臣秀長、旭姫、淀殿・秀頼母子など、秀吉を太陽とすればその光の下でしか名をなせなかった者の人生を連環として浮かび上がらせる構成になっている。特に「殺生関白」として自滅してゆく秀次、関ヶ原の裏切者として名高い秀秋、秀吉の異父妹として生まれたがゆえに家康に嫁がされた旭姫らの暗愚を絵に描いたような姿は印象的だが、まことに興味深いのは、自分でもよくわからないうちに大舞台に引きずり出されてしまった者たちの悲喜劇をやわらかな口調で語り切っている点である。

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