『翔ぶが如く』を読む

日本人へ 第250回記念(承前)

塩野 七生 作家・在イタリア
ニュース 読書 歴史
 

西郷と決別する大久保が引き受けた「苦しみ」

『竜馬がゆく』は、人好きがして明るい坂本竜馬が主人公。脱藩は今ならば脱サラだから、自由な身分ゆえのカッコヨサも充分。「労」ならば多かったけれど、若い時期の労は「苦」にはならない。つまりこの作品は若者向きなのだ。

 一方、西郷隆盛と大久保利通が二大主人公になる『翔ぶが如く』になると、オトナ向きの作品に変わる。西郷は竜馬より八歳年上で大久保は五歳年長というほとんど同世代に属す三人なのだが、作品全体の印象はちがってくる。アイデアは豊富でも権力は持っていなかった竜馬に比べて、後の二人は権力者になっていたからだ。

 権力とは、それが人望であろうと政府内の地位であろうと変わりなく、他人、つまり第三者の将来を決める「力」を持つということである。要するに、責任ある立場になったということ。ゆえにその責任を自覚している権力者ならば、「労」に加えて「苦」も味わわざるをえなくなる。西郷と大久保を苦しめることになるこの「苦」は、廃藩置県の断行から始まったのだった。

 このときの西郷の説得役に、親友の仲の大久保でもなく長州側のリーダーである木戸孝允でもなく、三三歳と若い山県有朋が送られたのには冷徹な打算があった。

 公武合体策で行くとした場合、日本の防衛を担当する兵力は諸藩からの(まだ残っているのだから)持ち寄りになる。つまり一種の多国籍軍で、関ヶ原のときのような事前の周到な根まわしは不可欠。それを避けたければ、命令系統の一本化のためにも国軍にするしかない。いまだ若い山県有朋は大先輩の西郷への説得を、軍制面にしぼったのである。軍制改革の経験からもこのまま諸藩を温存していては国政は行えない以上、廃藩置県に着手すべきではないか、と。

 これに西郷は即座に応じる。「まことにそうじゃ、それはよろしかろう」。三三歳の長州人と四四歳の薩摩人は、それだけでわかり合えたのである。西郷には、薩長土肥の連合軍を率いて戊辰戦争を闘った経験があったし、山県には、「士」だけでなく農・工・商までも指揮して闘った奇兵隊の経験があった。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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