西尾末広(にしおすえひろ)(1891―1981)は瀬戸内海の女木島(めぎじま)(香川県)生まれ。昭和3(1928)年の最初の普通選挙で代議士に当選。戦後、片山哲委員長のもとで社会党書記長となり、22年5月の片山内閣成立とともに官房長官となる。つづく芦田内閣にも副総理として入閣。安保条約改定をめぐり社会党を離党。35年、民主社会党(のち民社党)を結成、委員長となる。
安裕(やすひろ)氏は孫。産経新聞社事業局SP事業部長。
私は11歳のときから祖父母のもとで育てられましたが、祖父は終生政治家西尾末広よりも労働者出身の社会主義者であることに誇りを感じていたと思います。晩年にいたるまで腕の良い職工であったことを自慢し、旋盤の扱い方を実際に真似て見せてくれたこともありました。

数年前小さな出版社からの依頼で祖父の一生の記録を事実だけでまとめた本を作ったことがありましたが、その作業を通じて、祖父がなぜ観念論を排した現実的な社会主義者の道を歩んだのかわかったような気がしました。
祖父は世間では政治家として評価されていますが、祖父の心は政治家以前に社会主義者であり、社会主義者以前に労働者であり、さらにそれ以前には、家族に人並みの生活をさせたいと願う平凡な夫であり父親であったのではないかと思います。
祖父は鬼が島と呼ばれる瀬戸内海の小島に生まれ、家が貧しいために勉学を高等小学校の途中で諦め、大阪に出て旋盤工になり、住み込み先の養女だった祖母と出会い結婚しました。祖父19歳、祖母16歳のときに父の姉になる長女をもうけましたが、当時の労働者の生活がそうであったように新婚時代の祖父母の生活は相当貧しかったそうで、親子3人ともに暮らす経済的余裕はなく心ならずも娘を養女に出さざるを得ませんでした。
昭和3年、祖父が無産政党の代議士として初当選した直後、晴れて親子の名乗りを上げるのですが、それも束の間、伯母は両親と一緒に暮らす夢も叶えられず、翌年20歳の若さで病死してしまいます。貧しいがゆえに勉学の道を断たれ、工場労働者が親子水入らずのささやかな幸せさえ望めない時代と社会の矛盾に対するやり場のない気持ちが、祖父の労働運動の原点だったのではないでしょうか。
祖父は労働者の現実の生活をいかに改善するかを常に心に懸けていた人ですから、知識人がふりまわす観念論には反発していた半面、労働者の地位を向上させるためにはインテリの知識の必要性も十分にわかっていたので、後に友愛会に参加し彼らから世界の情勢や運動の理論を学び、また労働者の実情を彼らに理解させ、相補い合って現実的な労働運動を進めていきました。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

