加藤(かとう)シヅエ(1897―2001)は東京生まれ。女子学習院を卒業し石本恵吉男爵と結婚。夫の赴任先の三池炭鉱で働く女性たちの境遇に心を痛めていたことから、米国留学中に産児制限運動のサンガー夫人に共鳴し、帰国後、産児調節の相談所を開設。夫が支援していた労働運動を通じ、加藤勘十と知り合う。後年、勘十と再婚。戦後第1回の総選挙にて女性初の国会議員の一人となる。衆参合わせ28年間、議員を務めた。
加藤タキさんはシヅエが48歳のときの子である。(初出:文藝春秋1989年9月号)
今年で92歳になった母は、風邪ひとつひかず、健やかに毎日を過ごしています。起床と就寝の時間はいつも同じで、一日のパターンもだいたい決まっており、リズムのある生活です。
何年か前、母と私で講演会に出席したときのこと、「どうしてシヅエさんのほうが、顔の肌艶がいいのでしょうか」と真顔で質問されてしまいました。母はいまだに朝起きると、誰に会う予定がなくとも、FMラジオでクラシック音楽を聴きながら、着替えはもちろんお化粧もします。「おしゃれですねと言われますが、これは、たしなみです」と申しております。

一昨年私に子供が生まれました。母にとっては90歳にして初孫で可愛さもひとしおですが、これからこの子を通じ今の時代の息吹を感じ取れることが、楽しみだそうです。昨年、日本人初の「国連人口賞」をいただきました。当初は授賞式に出席するため、ニューヨークまで行くつもりだったのですが、もしものことがあって孫の顔を見られなくなってはと、母はビデオ出演し、英語で謝辞を述べ、私が代理でいただいて参りました。
子育てについては、両親ともに高齢でしたから、私の自主性を尊重し、早くから自立を促すものでした。例えば、高校生の頃、私はファッションに凝りまして、あるときボタンだらけの服を着て、議員会館に母を訪ねて行きました。廊下を歩いていると、皆さん振り返りまして「シヅエ先生のお子さんでしょう。ちょっと……」と、ひそひそ話が聞こえてきました。母もさすがにびっくりして「何それ、鏡を見たの?」と言いましたが、「やめなさい、みっともない」とは申しません。恥ずかしいと気が付いたら着なくなるだろうと、本人の自覚に任せる方針でした。
夫を亭主関白に育てた
衆参を合わせて28年間議員を務めましたが、昭和49(1974)年に引退、77歳でした。父が亡くなった翌年、昭和54年には社会党を離党しています。母は選挙の時、組合などの組織票には頼らず、ひとえに演説の力で、一般市民の支持と浮動票を得ての当選でした。
党内では、母が時に大量の浮動票を得ることに不満の声があり、また、党則よりも自身の信念に則して発言、行動していたため、党内では冷遇されていました。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

