中山(なかやま)マサ(1891~1976)は、我が国初の女性大臣として知られる。衆院議員に当選8回。第1次池田勇人内閣で、厚生大臣に任命された。建設大臣などを歴任した中山正暉(まさあき)氏は四男で、学生時代から秘書を務めた。息子が明かす大臣就任秘話とは――。
そもそも母には、政治家になるつもりなどありませんでした。戦前、大阪で弁護士をしていた父の福蔵が国会議員を志し、3回の落選を経て1932(昭和7)年に初当選しました。そのとき、母の涙ながらの応援演説が評判になったそうです。女性の演説自体、まだ珍しかった時代の話です。

1946年、戦後初の総選挙は、婦人参政権が認められたために女性議員がたくさん誕生しました。翌年の総選挙では、父の選挙区が2つに分割されました。父が従来の選挙区から出ることになり、二区には母が立つよう支持者が強く求めたのも、当然の流れだったのでしょう。母は周囲に押し切られたのです。
しかし結果は皮肉なものでした。父は落選し、母は定数4議席の4番目で当選したのです。同じ家の中で、あちらは残念会、こちらは祝勝会。新聞に「涙の当選」という見出しが躍ったのを覚えています。
議員になって母が最初に取り組んだのは、シベリア抑留者60万人の帰国問題でした。衆院の「海外同胞引揚に関する特別委員会」に所属し、のちに委員長を務めました。ソ連と交渉してもらちが明かないので、GHQや国連の人道委員会に訴えかけました。その結果、国連が調査委員会の設置を決め、引き揚げは進んだのです。
1960年の自民党総裁選で、母が所属していた派閥の領袖・大野伴睦先生が立候補を目指しました。当選6回の母は、「大野政権が誕生すれば、入閣があるかもしれない」と考えていたかもしれません。ところが大野先生は直前で出馬を取り下げてしまい、池田勇人内閣が誕生したのです。
中央大学法学部の学生時代から母の秘書を務めていた私は、組閣から1週間ほど後、入閣のお礼を述べるために大野先生をお訪ねしました。すると、意外な話を聞かされました。当時の組閣は、各派閥の推薦者名簿を元に、総理が選ぶのが習わしです。大野先生が自派の名簿を開いて差し出すと、池田総理は見ないまま伏せてしまい、こう言ったそうです。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
電子版+雑誌プラン
18,000円一括払い・1年更新
1,500円/月
※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2017年4月号

