河野一郎(こうのいちろう)(1898―1965)は朝日新聞記者から政界へ。戦後、鳩山一郎らと自由党を結成。公職追放の後、鳩山内閣成立とともに農相に就任、日ソ漁業条約締結の際の政府代表、日ソ国交回復に関する共同宣言の全権委員をつとめた。自民党“党人派”の代表格として、吉田茂の流れを汲む“保守本流”の池田勇人、佐藤栄作らと政権をめぐってはげしく争ったが、ついに総理総裁のイスにつくことはできなかった。河野洋平(ようへい)氏は次男。
当時、ソ連と交渉をしようにも、何らツテというものがなかった。大使館もそれに類する機関もない。一から十まで、すべて自分の手でやらなくてはいけなかったんです。その上、ソ連への感情はいいとはいえない。そんな中での交渉でした。よほどの決断力と先見性がないとできなかったと思います。

国交正常化が成った後、親父が漁業交渉のためにソ連を訪問することになった。この時、私も一緒に連れていってくれたのです。「ソ連へ行くのは最後になるかもしれないから」という理由でした。
当時は第一書記がフルシチョフ、漁業相がイシコフでした。イシコフという人は実直な大臣で、たしか一緒にボリショイ・バレエを見にいったんです。ところが親父はバレエを見ている最中も、イシコフと交渉を続けてるんです。横で聞いていると「フルシチョフに会わせてほしい」と言ってるんですね。
イシコフは快く受けてくれました。さらに親父は「同行している新聞記者の代表に、ほんの数分でいいからフルシチョフとのインタビューをさせてほしい」とも頼んでいました。そして、これが一番嬉しかったんですが、「せっかく息子を連れてきたんで、フルシチョフと握手をさせてやってほしい」と言うんです。これもイシコフは「どうぞ」と引き受けてくれました。
そして翌々日、私は親父についてクレムリンに行き、実際にフルシチョフと握手をしたんです。といっても、握手が終るとすぐに部屋から出されて、分厚いドアの外で長い間待たされました。その間、親父とフルシチョフはふたりきりで真剣な討論をしていたのです。
後から親父に聞いたところでは、フルシチョフというのはざっくばらんな政治家で、党人派の親父とはどこか気が合う面があったようです。「なかなか手ごわいが、おかげでうち解けた交渉ができた」とも話していました。
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source : 文藝春秋 1989年9月号

