豊かさへの罪悪感から運動に身を投じた知識人たちは、なぜ思想を捨てたのか?(構成:栗原俊雄・毎日新聞記者)
共産主義が日本に根付かなかった理由
本連載は明治維新以降の近代を振り返っているが、ひとくちに「近代」と言っても、大正時代中盤を境に、前期と後期に分けられると私は考えている。大正7(1918)年の第1次世界大戦終結から大正12年の関東大震災にかけて、社会構造が大きく変化したからだ。帝国大学以外の大学が各地に発足し、企業の定期採用と終身雇用制が一般化し始めた。山縣有朋が逝去し、藩閥政治が終焉を迎えたのもこの頃だ。
そして思想の世界も、この時期に大きく変わった。近代後期の始まりとともに、反体制運動が大きなうねりとなってゆく。とりわけ、ロシア革命(大正6年)を受けて日本でもマルクス主義が勢いを増し、大正11年には山川均、堺利彦、荒畑寒村、片山潜らによって第1次共産党が結成された。その後、第1次共産党は当局による摘発で解散に追い込まれるが、厳しい弾圧にもかかわらず、大正15年に佐野学、鍋山貞親、福本和夫、渡辺政之輔、徳田球一らによって第2次共産党が発足する。
しかし昭和8(1933)年、佐野学と鍋山貞親が収監されていた市ケ谷刑務所から「共同被告同志に告ぐる書」と題した転向声明書を発表したことで、共産党は大打撃を受ける。幹部やシンパたちが雪崩をうつように転向していったのである。その後、共産党は壊滅し、獄中にいた徳田球一、志賀義雄、宮本顕治が太平洋戦争終結後に釈放されるまで、息を吹き返すことはなかった。
なぜ共産党は存続しえなかったのか。第一の理由は、特別高等警察(特高)をはじめ権力側の弾圧が熾烈を極めたからであることは論を俟たない。だが、そもそも共産主義理論には日本社会の土壌にそぐわない面があったこともまた事実である。
今回は、「転向」という観点から、共産主義が日本に根付かなかった理由を考えてみたい。
亀井勝一郎少年の罪悪感
大正デモクラシーの風潮の中で、なぜ反体制運動に身を投じる人々が出てきたのか。それを知るには、当時の社会情勢を見る必要がある。
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source : 文藝春秋 2021年6月号