自分の映画に「足りないもの」は何なのか
そうした映画のヒットを横目で見ながら、自分が手がけてきた映画に「足りないもの」を考えていた。そんな時にテレビ版の『ぼけますから よろしくお願いします。』に出会ったのだ。
ディレクターの信友直子さんは私より8歳年上。もう20年以上の付き合いで、私の古巣であるフジテレビ界隈では、名の知れた名物ディレクターだった。ドキュメンタリーの作り手として実力は折り紙つきの彼女が、これまでのディレクター人生の集大成のように、年老いた両親にカメラを向けてさらした老老介護の厳しい現実。それは確実に、今の時代に問う価値のあるものだと感じた。
そして自分も含めたテレビディレクターの無名性を常々残念に思っていたこともあり、映画化することでこの凄まじい作品と、監督としての信友直子の名を世に広めたいと思い、出資を決めた。もちろん、そうしたきれいごとだけでなく、「この映画は絶対に当たる。儲かる」という、プロデューサーとしてのスケベ根性があったことも否定しない。
映画化に当たっては、この作品は信友さんの世界なので、中身について私がとやかく言うことはほとんどなかった。テレビのテンポよりじっくり見せること。ナレーションの分量を減らし、監督本人が語ること。テレビ版ではやや過剰だった音楽を極力少なくし、撮れている画の力で勝負すること、などを確認しあった。「他人の意見に聞く耳は持つが、譲れないところは譲らない」という、優れたディレクターが持つ共通の資質を、当然ながら彼女も有していた。テレビ版で私が最も気になっていたのは監督の立ち位置で、「娘であることと、ディレクターであること、どちらを優先しているのか」ということだった。その立ち位置については、映画の中で監督本人がきちんと表明してほしい、とお願いをした。
「これは他人事でない」と思える共感
映画が完成し、マスコミ試写会を重ねるうちに、手応えを感じていった。新聞や雑誌、ネットなどの活字メディアから、監督への取材依頼が殺到した。それも「映画面」ではなく「生活面」の記者の方が、気持ちのこもった熱い記事を書いてくれた。
そして迎えた公開初日。上映館である「ポレポレ東中野」に、長蛇の列ができた。椅子が足りず、補助席が出るほどで、上映終了後には感極まったお客さんが監督のサイン会の列に並んだ。東京での公開の後、監督の地元である広島、呉、そして京都、大阪、神戸、名古屋と舞台挨拶をする監督のお供をして回った。どの劇場でも、お客さんは時に泣き、時に笑い、サイン会では監督に自分の両親の話をした。そんな光景を見ながら、私はこれまで自分が手がけてきた映画に「足りなかったもの」を再確認した。それは、観た人が「これは他人事ではない」と思える、映画への共感だ。