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大量の木材瓦礫、橋にぶら下がっている車

 次第に実像が見えてきた。横転する車、ひっくり返った車、潰れている車。地面にはコンクリートの基礎部分だけが残り、周辺一帯には大量の木材瓦礫が広がる。2階部分だけ流された木造家屋がコンクリートの構造物に張り付き、車が橋にぶら下がっている。地面を見ると、黒い砂が覆っているか、抉り取られたように海水が溜まっている。窓を開けると、海の強烈な潮のにおいと焼け焦げたようなにおいが混じり、空気中には無数の塵が舞っていた。

©志水隆/文藝春秋

 大槌町の中心部に到着して、その恐ろしさを目の当たりにした。そこにあった何千、何万人の日々の暮らしが根こそぎ奪われた光景は、まるで戦争写真などで見た爆撃されたあとの廃墟のようだった。高台から見渡してみれば、そこにあったはずの人々の営みを想像することも難しい状況だった。

どうすれば「記録」として残せるか

 この惨状をいかに伝えるべきか。そしてどうすれば、後世にも残る記録として刻みつけることができるのか――。

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 この震災では新聞、テレビ、雑誌とあらゆるメディアが総力戦で取材にあたっていた。膨大な取材費や人員を比べれば、個人ができることは限られる。その中で、それでもなお取材に行くのであれば、できるだけ焦点を絞ったほうがよいと思われた。

 私が出した結論は、被災地の子どもに作文を依頼することだった。岩手と宮城の被災地に赴き、小学生から高校生までの子どもたちに作文を書いてもらう。それをまとめてみたいと思った。(※中略)

避難所で所在なげな表情だった子どもたち

 そう思った背景には、大槌町等での体験もある。発生1週間後に各地の避難所を取材している中で、気になっていたのが、子どもの存在だった。体育館などで住民たちが身を寄せている間、子どもたちはたいてい所在なげな表情だった。狭い館内で遊びだすと、年配者たちから「静かにしなさい!」と叱られ、外に出ればすぐ近くに瓦礫(がれき)の山が広がっている。この苦しい環境の中で、そして心細い状況の中で、子どもたちは一体、何を考えているのだろう、という問いは取材中ずっと頭を占めていた。かといって、ただでさえ苛烈な体験をインタビューで聞くわけにもいかない。そんなジレンマを抱える中で出会ったのが、吉村昭の作品(『三陸海岸大津波』に収められている「子供の眼」は昭和8年3月3日に起きた昭和の大津波に際して、岩手県田老(たろう)村(現宮古市)の尋常高等小学校の子どもが書いた作文によって構成されている)だった。