文春オンライン

子どもたちが書いた3.11――あのとき彼らは何を思っていたんだろう

『「つなみ」の子どもたち 作文に書かれなかった物語』より

2019/03/11
note

子どもたちにおそるおそる「書く」ことを打診

 4月中旬に宮城県名取市に入り、そこから仙台市若林区、石巻(いしのまき)市へと足を運んだ。もちろん簡単にできると思っていたわけではない。震災から日も浅く、子どもや保護者によっては、まだ思い出したくないという人も少なくないだろうと思われたからだ。そのために決して無理強いはせず、子どもと保護者に趣旨を説明し、保護者の承諾を得たうえで「書く」「書いてもいい」と言ってくれる子どもにペンをとってもらうことにした。

 まだ避難所も大人数でごった返す中、おそるおそる打診してみると、反応は想定を越えたものだった。こちらの予想を大きく上回り、積極的に「書く!」と引き受けてくれる子が多かったのである。名取市、仙台市若林区、石巻市の3つの地域の子どもたちは30人余りが手を挙げ、結果的には22名が原稿を寄せてくれた。

共通して子どもたちが伝えようとしていたこと

 その中にはこちらが依頼していなかった保育園の子までいた。避難所の小学生のおともだちが書いているのを目にして、自分から「書きたい」と言ってくれたのだということだった。読んでみると、それらは痛ましいものもあれば、希望を感じさせるものもあった。ただ、共通して子どもたちが伝えようとしていたのは、この津波による被害を多くの人に知ってほしいという思いだった。(※中略)

ADVERTISEMENT

 結果的に受け取った作文は85本、絵のほうも十数点にのぼった。それらの作文は月刊「文藝春秋」臨時増刊号『つなみ 被災地のこども80人の作文集』というムック(現在は単行本化)にまとめることができた。

石巻市立大川小学校 ©杉山拓也/文藝春秋

 子どもたちはその日のことを実に生々しく記していた。震災発生時、多くの子どもは学校に避難していたが、そこで迫り来る津波を目の当たりにした。「ゴー、バキバキ」「ドッバァーザバー」と激しい音を立ててやってきた津波は、「黒っぽくてくさく」もあり、「白い煙のよう」でもあった。避難の過程で人が死にゆく様子を目撃した子もいれば、壊れゆく町を茫然と眺めていた子もいる。そして、少なくない子どもたちが、作文の末尾に支援への感謝を綴っていた。どの作文も指導などなく、個々の体験と思いから書かれたものだった。(※中略)