発売とともに、業界内外を騒がしている異色のコラボ増刊「ビームス×週刊文春」。そのなかから、『週刊文春』の連載でお馴染みの橘玲さんが綴る「あのころのビームス」をご紹介します。
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いまは亡き忌野清志郎がボーカルを務めたRCサクセションの代表曲に「トランジスタ・ラジオ」がある。授業をさぼって高校の屋上で煙草を吸っていると、内ポケットに入れたトランジスタ・ラジオから海外のヒット曲が流れてくる。「ベイエリアから、リバプールから、このアンテナがキャッチしたナンバー」(作詞・作曲 忌野清志郎/G.1,238,471)と清志郎が歌ったのは1980年で、リバプールはビートルズ、ベイエリアはアメリカのウエストコーストで、「ホテル・カリフォルニア」が大ヒットしたイーグルスのことだと誰もがわかった。
その当時ぼくは大学2年生で、ポストモダンと呼ばれたフランスの現代思想にはまっていた。そして、海の向こうにはなにかとてつもなく素晴らしいものがあるにちがいないと信じていた。音楽や哲学だけではなく、文学や美術、映画・演劇から料理にいたるまで、80年代前半までの日本人は「海の向こう」にとりつかれていた。
マガジンハウスの雑誌『POPEYE(ポパイ)』が創刊されたのは1976年で、サーフボードやスケートボードを乗りこなし、コカ・コーラやトロピカル・カクテルを飲み、カジュアルなセックスを楽しむアメリカ西海岸の「流行の最先端」が誌面に躍った。渋谷ファイヤー通りのビームス(1977年開店)はこの時代の「シティ・ボーイ」文化の象徴だった。
まったく知らなかった女の子たち
大学を卒業して場末の出版社で2年ほど働いたあと、友だちと小さな編集プロダクションをつくった。最初の仕事は流通雑誌の特集記事で、渋谷や原宿の裏通りにつぎつぎと誕生するブティックの特集だった。そこでぼくは、これまでまったく知らなかった女の子たちと出会う。
彼女たちは地方の高校を卒業して上京し、ファッション関係のアルバイトをしながらデザインの専門学校に通っていた。一人ひとり「おしゃれ」についての独自の哲学をもっていて、ミュージシャンやイラストレーターのカレシがいて、夜を徹して「海の向こうの新しいもの」について語った。アンディ・ウォーホルやウディ・アレンはそこで教えてもらった。
そんな場にはニューヨークやロサンゼルス、ロンドンやパリで暮らしていた年長者がいて、外国のことなど何も知らなかったぼくは、アメリカのゲイ・カルチャーやロンドンのパンクスの話を目を丸くして聞いていた。渋谷のライブハウスで朝まで踊り、インド音楽のコンサートでシタールを聞き、あまり大きな声ではいえないが、こっそりマリファナを回したのもいまではいい思い出だ。