特に、多くの高校の1年生で必修になることが予測される「現代の国語」の教科書には小説や詩歌などフィクションの掲載が許されておらず、ほぼ論理的な文章や実用的な文章のみで構成される。PISAが定義する「読解力」に照らし合わせれば合理的な気もするが、教育現場からは「文学軽視」「学校教科書から文学教材が消える」などの批判の声も上がっている。新聞よりも小説を読むほうがPISA的な読解力を向上させる意味でも効果が高いかもしれないことは、前述の通りである。
PISAが設ける指標に基づいて日本の子どもたちの弱点を見出し、打ち手を講じることはもちろん大切だ。しかし一方で、仮にPISAの考える「読解力(リーディング・リテラシー)」で世界最高の成績をおさめたからといって、日本人としての国語力が優れていることにはならない。そこを混同してはいけない。
大人の「読解力」こそが試されている
AIに負けないために読解力が重要であるという指摘もあるし、大学入試改革の議論もある。ちょうどいいこのタイミングで、国語教育に対する議論が活発化すればいい。その際に重要なのは、「国語」という教科の目的や「読解力」という概念を整理しながら議論することだ。その前提がズレていれば、議論がかみ合うはずもない。
そもそもPISAの「読解力(リーディング・リテラシー)」は本当に日本の教育における「国語」の範疇の中に収められるものなのか、あるいは教科の枠を越えた合科的な概念の上に成り立つものなのか、そこから議論する必要もあるだろう。
PISAが求めている「読解力(リーディング・リテラシー)」とはまさに、今回の結果レポートを読み込み、正確に理解し、評価し、熟考し、的確に対処できる能力のことである。つまりいま、私たち大人の「読解力(リーディング・リテラシー)」こそが試されているというわけだ。