この1924年建築の古い駅舎は、原宿駅にとって2代目の駅舎である。原宿駅の開業は1906年。当時は今よりも500mほど代々木よりにあった。その当時の駅の周りは人影もまばらな草むらだったという。最初の変化は1909年に現在の代々木公園のあたりに設けられた陸軍の代々木練兵場。こうして黎明期の原宿駅は“軍隊の駅”としてスタートしたのである。
1924年「原宿駅リニューアル」の理由も“狭いから”
ところが早々に2回めの変化が訪れる。明治天皇が崩御して大正天皇の御代になると持ち上がったのが明治神宮の造営計画。実際に1920年には山手線の線路のすぐ西側に明治神宮が完成する。そうすると、原宿駅は明治神宮の最寄り駅になった。明治神宮の鎮座祭が行われた1920年11月1日は、折り悪く雨が降ったこともあって原宿駅は相当な混雑に見舞われたという。当時の様子を東京朝日新聞は「省線の開通後、空前の大混乱」と記している。もともと原野の如き草むらにできた小さな駅では、とうてい明治神宮参詣客をまかない切れるものではなかったのだろう。
そんなわけで、駅舎を明治神宮の参道に近づけて規模を拡大、1924年にリニューアルオープンしたのが現在の原宿駅である。今や手狭で困ると言っている原宿駅舎も、もともとは“初代駅舎が狭いから”できたものだったのだ。そして1925年には皇族専用の宮廷ホームも完成。翌年の夏には大正天皇が宮廷ホームから葉山御用邸に向けて出発しているが、そのまま葉山で崩御して霊柩列車で宮廷ホームに帰ることになった。
いつから原宿は“ファッションの街”になったのか
その後も明治神宮の参詣客は増える一方で、原宿駅は幾度か駅舎の増築を行っている。神宮参詣のための臨時ホームが設けられたのものこの頃。戦争の時代に入っても戦勝祈願で神宮参詣者は右肩上がりで増えており、原宿駅の駅舎はその頃すでに手狭になっていたようだ。1945年には空襲にもさらされている。なんでも、10発もの焼夷弾が駅舎に落ちたがすべて不発弾で焼けずに残ったのだという。さすが神宮に隣接する駅だなあとなるのだが、まあ10発すべて不発というのは都合の良すぎるお話。実際どうだったのかはわからないが、少なくとも原宿駅舎が空襲をくぐり抜けて残ったのは事実である。