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敗戦 不可欠だった天皇制の「民主化」

 ところが、再び転機が訪れる。1945(昭和20)年にアジア・太平洋戦争に敗戦した日本は、世界からの厳しい戦争責任追及を受けることになり、天皇制をも危ぶまれる事態に陥った。しかし占領軍(GHQ)は、円滑な占領政策を進めるため、天皇制を廃することまでは考えていなかった。しかし、責任追及の声に応えるためにも、天皇制の何らかの改革=「民主化」とそのアピールは不可欠であった。そこで考え出された対応の一つが「人間宣言」で、天皇制は変わったと内外に示そうとしたのである(河西秀哉『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院、2018年)。

昭和天皇と連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー

 同じころ、昭和天皇は自身が旅することで、戦争で傷ついた人々が慰められる、励まされるだろうと考えていた。この天皇の希望をかなえるべく、宮内省はGHQや政府に対して、その実施の説得を行っていく。実はGHQ側でも、天皇の旅が考慮されていた。GHQは敗戦後の日本国内が混乱に陥っている状況を見、天皇の権威によってそれを回復させようと考えたのである。つまりGHQも天皇には未だに権威があることを認め、天皇の力によって人々が励まされ、混乱状況も解消するだろうと見ていた。一方で、天皇と人々が触れ合うことで「民主化」をアピールできるとも考えていた。つまりGHQは、天皇の旅には一見すると矛盾すると思われる、「権威」(国見の延長線上だろうか)と「民主化」(いわゆる「平成流」の源流なのかもしれない)という二つの目的があると考えていたのである。そして天皇の旅は、1946年2月に神奈川県から開始され、天皇は戦災復興状況の視察と戦災者激励、引き揚げ者援護状況の視察を主な目的として、各場所を視察し、人々と会話を交わした。このように天皇の旅は、人々への激励と慰問が目的となっていた。その様子は大きく報道され、天皇との距離が近づいたこと、天皇制が「民主化」したことを人々に実感させたのではないか。

昭和天皇が、戦後初めて稚内を訪れた

 この後、昭和天皇は占領期、精力的に各地へ出かけ、人々への激励と慰問を続けていく。そして講和独立後も昭和天皇は旅を続けた。それは各地を視察する意味があったように思われる。

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 たとえば、昭和天皇と香淳皇后は1968年8月から9月にかけて、北海道を訪問している。天皇皇后は札幌で北海道百年記念祝典に出席した後、旭川を経由して稚内へと入った。昭和天皇はここで敗戦後初めて、北海道北部を訪問することになる。稚内では日本の「北端」を視察し、天皇皇后を受け入れた稚内の人々は自身がそうした最北端の地域にいることの自己意識を強化していった。

1968年9月、稚内市内をご覧になる昭和天皇と香淳皇后。右は氷雪の門(北海道・稚内市の稚内公園) ©時事通信社

 その意味では、この天皇の稚内訪問は国見を引き継いだものとも言えるだろうか。象徴天皇となり、天皇は人々に気さくに声をかけるようになった。それはたしかに、天皇が人々に近づいてきたことを目に見える形で示す空間となったかもしれない。一方で、古代以来の天皇の威光もそこには存在していたのである。