DCコミックスにあって、マーベル・コミックにない視点
DCコミックスのワンダーウーマンが誕生した1941年、時を同じくしてマーベル・コミックでキャプテン・アメリカも生まれている。そのネーミング、コスチュームともに、アメリカそのものを体現するように考えられがちなヒーローだ。しかし実際には、キャプテンはアメリカ合衆国に従うのではなく、アメリカ建国の精神に忠実であろうとする。自由、平等、博愛の精神が侵されるならば、アメリカであろうとも敵に回すのがキャプテンだ。それゆえに『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』では、アイアンマンたちと袂を分かち、敵対することになった。
マーベル・シネマティック・ユニバースは、911以後のテロの時代の状況を描こうとしている。「正義(ジャスティス)」は、個人の立場によって異なる。ジェンダー、人種、宗教、社会的な立場(マイノリティーか否かなど)がそれぞれの正義を規定する。それらがますます細分化し、正義のモザイクと化しているのが現代の世界だ。マーベルのヒーローはその状況に忠実であろうとしている。その意味で、物語的にはマーベルの方が一歩先を行っている。
『ワンダーウーマン』で描かれた「女性の社会進出」「男と同等の力と立場」といったフェミニズム的な視点は、正義の意味についての問いかけの第一歩ということになる。そして、この視点はDCにあって、マーベルにはないものでもある。マーベルには、彼女のようなフェミニンな視点で正義のための力を行使するキャラクターはいない。だからこそDC陣営は本作で、女性の社会進出と正義の力というテーマを重ね合わせたのかもしれない。これはDCユニバース再生の第一歩であり、ダイアナという女性が成長する物語の始まりとなるはずだ。
『羊たちの沈黙』『エイリアン2』……「闘うヒロイン」の系譜
かつてのハリウッド映画に登場した「闘うヒロイン」は、『羊たちの沈黙』のクラリスのように、仕事を通じて自己実現を図る(FBIアカデミーの実習生のクラリスがレクター博士の助けを借りながら事件の真相に到達し、自分の過去を清算し、社会的な地位を獲得する)ものが多かった。女性の主戦場は、仕事であり社会だった。これは、まだ男女平等が不十分だったことの証左でもある。
’80年代にはジェームズ・キャメロンが、リプリー(『エイリアン2』)やサラ・コナー(『ターミネーター』)のような闘うヒロインを生んでいた。彼女たちはいずれも、物語の始まりの時点では特別な能力の持ち主ではないが、最後には世界の危機を乗り越える役目を得ることになる。おもしろいことに、リプリーもサラ・コナーも、闘う能力の源泉が彼女たちの母性に由来している。男たちがどうあがいても手にすることのできない能力で、彼女たちは闘う(それは男がつくった幻想かもしれないのだが)。ワンダーウーマンが男たちと同等の能力をもって戦場に赴くのとは、様子が違っている。どちらにせよ、ここには男と女という差異があるままだ。
では、そうではないヒーローはいないのだろうか。男だから、女だからという垣根を超えたヒーローは。