原作誕生は1941年、舞台に選ばれたのは1918年、という意味
ハリウッド映画の現状に見事に対応した『ワンダーウーマン』だが、原作が誕生したのは第2次世界大戦中の1941年で、すでに長い歴史を持っている。彼女は人間の世界から隔てられた、女性だけのアマゾン族が暮らすパラダイス島で生まれ育つ。映画も原作のこの設定を踏襲しているが、舞台に選ばれたのは第1次世界大戦中の1918年である。女性参政権が未だ完全には認められておらず、男性と同等の権利獲得運動が始まっている時代だった。作中で描かれるように、島からロンドンにやってきたダイアナがスティーブ(クリス・パイン)とともに議場に入ると、「なぜ女がここにいるのか」と排除されるような時代だった。女性が兵士として従軍するなど考えられなかった時代でもあり、女性は機能的な服ではなく、コルセットで身体を拘束し、ひらひらとした衣装をまとうのが当然だった。映画は、アマゾン族の衣装でロンドンに来たダイアナが「ロンドン風の」衣装に着替えるシーンで、そのことをコミカルに、しかし皮肉を込めて描く。ガル・ガドットがイスラエルで兵役に就いていたことを知っていれば、その皮肉はさらに深みを増すだろう。
ダイアナは女性的な衣装を脱ぎ捨て、ワンダーウーマンになる(セクシーで女性的なドレスの背中に、必殺の剣“ゴッドキラー”を背負ってパーティに潜入するシーンも描かれる)。
男性社会(人間社会)のルールを超えるワンダーウーマンの力は、イギリス(連合国)の敵国ドイツに向けられる。スパイとしてドイツ軍に潜入したスティーブが、敵国の恐ろしい計画(究極の毒ガス兵器による攻撃)を報告し、阻止すべきだと提案するが、休戦協定の交渉段階であることを理由に、彼の提案は却下される。
スティーブはワンダーウーマンとともに仲間を集め、独自の作戦を実行しようとする。この行軍において、ワンダーウーマンはドイツ軍の計画を阻止し、世界に平和をもたらすための力となる。
倒すことではなく、守ることが目的
そもそも、彼女がロンドンに来たのは、イギリス軍の男(スティーブ)とパラダイス島で出会ったことがきっかけだった。彼を追って来たドイツ軍の攻撃に対抗するために、彼女やアマゾン族の女性は武器を手にした。防御のために武器を使うというのは彼女たちの思想だった。彼女の武器も、自身の身体能力の他に、ゴッドキラーと呼ばれる剣、盾、捕らえた者が嘘をつけなくなる真実の投げ縄、フェミナムと呼ばれる金属でできた腕輪(これで銃弾などをはじき返す)で、防御的なものがほとんどだ。それは合気道や少林寺拳法のような護身術の考え方にも通じる。相手を倒すことではなく、自分たちを守ることが目的なのだ。
映画の前半はこの思想に則っていて、素晴らしい。
ところが、残念ながら映画の焦点は“ウーマン”ではなく、彼女の“ワンダー”な力に移っていく。男たちとともに戦う彼女の姿を見るのは爽快だが、スーパーパワーの行使が描かれるほど、私が映画に期待したワンダフルな彼女の魅力が後退してしまう(それは、ワンダーウーマンの誕生を描く本作の性質上、ある程度仕方がないことなのだが)。
スティーブを守ることが、連合国を守ることとイコールになり、当然のようにドイツ軍は敵とみなされる。ドイツ軍の事情や主張が問われることはない。ワンダーウーマンの「正義」は精査されず、スティーブが所属する連合国にこそ正義があると決めつけられる。彼女の力は、島での教えを逸脱してしまうのだ。
力にはより強い力をという理屈で敵を倒す姿に、冷戦時代(特にレーガン政権の時代)のアメリカの正義(ジャスティス)の影が垣間見えてしまう。
もしも彼女が最初に出会ったのがドイツ軍の男だったら、連合国を敵にまわしたのだろうか? そんな素朴な疑問は封印されたままだ。