昨今の政治学では、「ポピュリズム」そのものは必ずしも否定するだけの対象ではない。メディア上で広く使われている「大衆迎合主義」という訳語も、適切とは言えない。例えばオランダの政治学者カス・ミュデらはポピュリズムをこう定義する。
「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」(『ポピュリズム:デモクラシーの友と敵』白水社、2018年)
玉川はエリート=官僚と対峙することで、政治から置き去りにされる人々の思いを捉えている存在であり、百田は「朝日新聞」に代表されるリベラルエリート特有の偽善的な姿勢に対峙することで支持を獲得していると見ることもできる。
右側から攻める百田、左側から攻める玉川
こうも言えるだろう。右派からリベラルメディアに向けられる疑念を象徴する存在が百田であるとするならば、玉川は安倍政権と政権に近い専門家に向けられたリベラル側の疑念を象徴している存在である。
玉川も百田も、大衆には決して迎合せず、「本音」を発すること――あるいは「本音」を発する場を確保すること――で大きな権威と対峙する姿を見せ、人々の心を捉える。彼ら自身が計算しているわけではないのに、彼らの本音や一挙手一投足に賞賛と批判が集まるのは、人々がポピュリストに魅了されていることを意味している。私には彼らの動向に注目が集まること、それ自体がポピュリズムの時代を現す一断面に思えてならない。
共通しているといえば、百田も玉川も共通しているのは、指摘された間違えを認める「潔さ」だ。変な言い訳はしない。冒頭の謝罪騒動も大きな傷にはならないだろう。玉川ファンからすれば、「間違いを潔く認め、謝罪」したことが評価ポイントとなり、アンチ玉川は「間違いが他にもある」と関心を持続させるからだ。
いずれにせよ、問題は日本でも強まるポピュリズムの風とどう向き合うかということだ。彼らが話題になる社会は大いに取材し、考察する価値がある。
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石戸諭氏による「モーニングショー 玉川徹の研究」の全文は「文藝春秋」6月号および「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
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モーニングショー 玉川徹の研究
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