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兆候にきづいても「注意」に留まる教師

 地裁判決では「ひとつのエピソードにすぎない」として、いじめとしては認めなかった。だが、控訴審判決では「精神的に大きな衝撃を受けなかったはずはない」として、いじめとして認めた。また、学校内外の被害生徒の動向に教師が気づいていたことも示された。被害生徒が授業中に抜け出したり、欠席や遅刻が続いた状況があったため、8月8日に次のような手紙が担任から親に出されたことに言及したのである。

 気が弱いということから、イジメラレル傾向があります。僕も気をつけていますが、今の生徒は中々ずるがしこくうまく、彼を仲間にひき込もうとします。イジメて悪いことでもやらせようとするんです。しかし裕史は悪いことの出来る子ではありません。だから、イジメラレルのかも知れません。

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 さらに、被害生徒がいじめの対象になることを学校側は予見していたことや、いじめの対象になっていることをも学校側は目撃していたことについて、「いじめに長期間にわたってさらされ続け、深刻な肉体的、精神的苦痛を被ることを防止することができなかったものであるから、中野富士見中学校の教員らには過失があるというべき」と指摘。学校側の対処は、加害生徒のいじめ行為を注意するだけだったことを認めた。

いわき市のいじめ自殺判決は画期的過ぎた?

 しかし、「いじめを受けた者がそのために自殺するということが通常の事であるとはいい難い」として、控訴審判決も自殺の予見性は認めなかった。つまり、一般的な教員ならば、いじめを受けた生徒が自殺するという結果をまねくことは認識できないと結論づけた。当時は、いじめは、自殺のリスクとして捉えていないということなのだろう。

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 前出の福島県いわき市立小川中学校3年の男子生徒のいじめ自殺では、加害生徒の行為は「悪質ないじめ」であり、学校側にも過失があったとした。安全配慮義務違反を判断する基準としては、「心身に重大な危害を及ぼすような悪質重大ないじめであることの認識が可能であれば足り」るとしていた。中野富士見中学校のいじめ自殺の判決と比較した場合、裁判所によっていじめ自殺に関する司法の評価が分かれてしまっている実態が浮きぼりになった。

 いや、中野富士見中のいじめ自殺は、いわき市のいじめ自殺のあとに起きた。両者の判決を見るかぎり、いじめ自殺に関する司法の評価は後退したと筆者は考える。もしくは、当時としては、いわき市のいじめ自殺判決が画期的過ぎたのかもしれない。