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「生きジゴク」になっちゃうよ……教員も参加した“葬式ごっこ”が奪った中学2年生の命

裁判では、何がいじめとして認められたのか

2020/06/22
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クラス全員と教師3名による「葬式ごっこ」

 この自殺をめぐっては、86年4月に警視庁がいじめの加害者16人を傷害と暴行容疑で書類送検した。同年6月には、遺書に書かれていた生徒2人と両親、東京都と中野区を相手に損害賠償を求めて、遺族が東京地方裁判所に民事提訴した。以下、訴訟の記録を元に、事件の概要を振りかえってみる。

 この事件が注目をあびたのは、前述のとおり「葬式ごっこ」に教員が参加していたからだ。判決文には、「2年A組の生徒数名は、同年11月中旬頃、裕史の不在の席で雑談していた際、欠席、遅刻の多い被害生徒が死亡したことにし、追悼のまねごと(葬式ごっこ)をして、驚かせようと言い出した者がいて、これに賛同し、実行に移すこととした」とある。これに教師が加わったというのだ。

 机には、「鹿川君(筆者注…被害生徒の名字)へ さようなら 2Aとその他一同より 昭和61年11月14日」と書かれた色紙が置かれ、そこには2年A組のほぼ全員の生徒と、ほかのクラスの2年生の一部、担任、英語科担当教師、音楽科担当教師、理科担当教師という4人の教諭によるコメントが書かれていた。加害生徒の主犯格は「今までつかってゴメンね。これは愛のムチだったんだよ」、担任は「かなしいよ」、英語科担当教師は「さようなら」、音楽科担当教師は「やすらかに」、理科担当教師は「エーッ」などと書いていた。

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新たな交友関係も破壊された

 遅刻して登校した裕史は、机のうえを見て「なんだこれ」と言った。彼が登場すると、クラスのひとりが弔辞を読みあげた。帰宅した裕史は、「こんなのもらっちゃった」と母親に色紙を見せた。

 使いっ走りを拒んだ裕史は、グループのメンバーに平手打ちをくらうこともあった。グループを抜けようとすれば、仲間はずれにしようとするムードが高まる。結局、被害生徒は学校を欠席するようになっていく。この段階で、裕史の家族と担任は話しあっていない。

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 裕史は新しい交友関係を作り、年末年始に高尾山へ自転車旅行に行く。グループのメンバーたちが憤慨し、裕史と一緒に遊んでいた生徒たちに暴行を加える。事実を把握しようとした教頭が当事者らに電話をしたものの、暴行の事実を否定した。

 その後もいじめは続く。転校の可能性を模索したが拒否。86年1月31日、登校するかのようにして家を出た裕史は、登校もせず、帰宅もしなかった。同年2月1日、盛岡駅ビル地下1階のトイレで、自殺をしているのを発見された。遺品には、新しく買ったミュージックテープ、現金331円、そして、保坂展人著『やったね元気君ーー体罰いじめに負けなかったぜ』とビートたけし著『幸か不幸か』という2冊の本が含まれていた。