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「大炎上」を受け……ハル・ベリーのトランス役降板は、行き過ぎたポリコレか?

2020/08/15
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 現代アートについても、セクシュアリティやHIV/AIDSをめぐる「奇跡のパフォーマンス」として世界中で高く評価された日本人アーティスト集団ダムタイプによる『S/N』(1994-6)に大きな刺激を受けた。 

 先ほど、少女時代に読んだ漫画『摩利と新吾』の、摩利が新吾に同性愛感情を向けたことを理由に、私自身の同性愛感情を肯定できた、と書いたが、他にも、『ポーの一族』(萩尾望都、1972-)のエドガーとアランの関係性にもめちゃくちゃ憧れた。

ポーの一族(1)』(萩尾望都)

 カミングアウトしたレズビアンとして生きるようになってからも、摩利やエドガーやアランはずっと、私の価値観のコアに存在している。さらに言えば、現実世界で交流した人たちと同じくらいに、いや、しばしば、より強く、私は漫画や映画やアートや小説に影響を受けてきた、と思う。映像や文字で表現されたもの全体を指す「表象(representation)」という言葉があるが、私は、「リア充」ならぬ「表象充」だ。 

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「そのカテゴリーとして生きていいのだ」と再確認できること

 自分から言わなければ自動的に「異性愛者」として扱われるレズビアンの私と、トランス女性やトランス男性の抱える困難は、もちろん違う。

 私が異性愛者だとみなされることの逆方向で、異性愛の俳優が同性愛者を演じることは可能であり、実際、実在したゲイの政治家ハーヴェイ・ミルクに『MILK』(ガス・ヴァン・サント監督、2008)で息を吹き込んだショーン・ペンや、『キャロル』で洗練されたレズビアン・ロマンスを見せてくれたケイト・ブランシェットとルーニー・マーラには感謝しかない。同性愛者として、レズビアンとして、生きていていいのだ、と、再確認させてくれたのだから。

 この、「そのカテゴリーとして生きていいのだ」と、多様な映像作品に触れることで感じていくということは、トランス当事者の人たちにも共通しているのではないだろうか。だから、今は、多様なトランス役を多様なトランス俳優が演じる多様な映像作品が作られるべき時なのだ。私も、ぜひ、見たい(そしてもちろん、レズビアン映画やドラマも、もっともっと見たい) 。

映画『ナチュラルウーマン』の意義

 私が評価したい近年のトランス当事者が登場する劇映画は『ナチュラルウーマン』(セバスティアン・レリオ監督、2017)だ。ウェイトレスをしながら歌手を目指す若いトランス女性マリーナが、父親ほどの年齢の恋人オーランドに先立たれ、遺族や警察や医療関係者から数々の迫害を受けることになる。だがそれを強い意志をもって乗り越え、歌手として大成するという物語だ。

 マリーナ役を演じるのは、当初はトランス当事者としてコンサルタントをつとめていたダニエラ・ヴェガ。ヴェガにマリーナ役をオファーすべきだとある日、ひらめいたというレリオ監督の慧眼には恐れ入るしかない。

『ナチュラルウーマン』で主人公マリーナ役を演じたダニエラ・ヴェガ(右)と、恋人・オーランド役を演じたフランシスコ・レジェス(左) ©getty

 また、彼女の恋人オーランドをフランシスコ・レジェスが演じていることの意義を、改めて思う。1989年にデビューしたレジェスは、テレビドラマ、映画、舞台でコンスタントに活躍する、チリでは誰もが知る国民的俳優であり、私生活では妻との間に5人の子供がいるという。

 そんな彼が演じるオーランドが映画の冒頭で、マリーナをお姫様のように扱う夢のようにロマンチックなシークエンスは、トランス女性が女性であり、異性愛男性に恋愛対象として求められて当然だ、というメッセージをパワフルに伝えている。そして、ヴェガがほぼ無名であったことを考えると、レジェスが出演するからこそついたスポンサーもいただろうし、映画館に足を運んだ観客も多かったであろうことに思いいたる。