文春オンライン

2020/08/15

 私は現在では、研究者としても大学教員としてもレズビアンとしてフルオープンだが、公的にカミングアウトしたのは1993年だ。

 1988年時点ですでに、雑誌『月光』の文通欄を通して同性の恋人と出会っていた自覚的レズビアンだったのに、カミングアウトするまでの5年間は、どう過ごしていたのか?

 職場では「コイバナ(恋愛話)に興味のない」異性愛者のフリをしていた。同時に、同じ文通欄で知り合ったレズビアンやバイセクシャル女性の友達や、職場のワケ知りの同僚が「デザイン学校時代の友達にゲイのコがいるから」と紹介してくれたゲイの友人たち、さらには、現在は女装パフォーマーとして活躍するブルボンヌがパートナーのまことと1990年に運用を開始したパソコン通信「UC-GALOP」で知り合ったゲイやレズビアンたちと、オフの時間を楽しく過ごしていた。典型的な二重生活だ。

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 なぜ、公的にカミングアウトしなかったのか? 異性愛規範の社会のなかで、同性愛者だとバレてしまったら、偏見の目にさらされる、と思ったからだ。

 私は、70年代から80年代の少女漫画のなかの「美少年漫画」に自己投影をして育ったので、自分が同性愛者であること自体を悲観したり嫌悪したことはない。一例をあげれば、『摩利と新吾』(木原敏江、1977-84)の、摩利が新吾に向ける同性愛感情と、自分のそれとは「一緒」なのだから、世間が何といおうと、「これが悪いもののはずがない」と思えた。が、だからといって、わざわざ、自分に不利になる情報を開示したくはなかった。 

「日本人のレズビアンが名前と顔を出すなんて!」

 だから、鮮明に覚えている。1992年に渋谷のパルコで開催された第1回レズビアン&ゲイ・フィルム・フェスティバルの会場で、書籍『「レズビアン」である、ということ』(掛札悠子)のチラシを見つけた時の衝撃を。

 実は、その日見たレズビアン映画の傑作と名高い短編『ダムド・イフ・ユー・ドント』(スー・フレドリック監督、1987)は、実験映像を見慣れていなかった当時の私にはあまりピンとこなかったので、1枚のチラシによる、「日本人のレズビアンが名前と顔を出してレズビアンとしての本を出すなんてことが、ありえるのか!」という驚きが凌駕したほどだ。

 そのすこし後には、掛札が始めたレズビアンとバイセクシャル女性のためのミニコミ『LABRYS(ラブリス)』(1992-95)を手伝うようになったが、当初は本名を出す勇気はなく、しばらくはペンネームで執筆をしていた。ミニコミ活動を通して、かなりの数のレズビアンやバイセクシャル女性と知り合い、購読者数が全国で最大1,700人となり(発送作業が大変だった!)、「私たちは、かなりの数、実在している」という実感は得た。

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 カミングアウト後は本名で執筆し、主に映画やアートを紹介することにやり甲斐を感じていた。

 当時はちょうど、映画史上初の等身大のレズビアンたちの「ガール・ミーツ・ガール」映画と評された『Go Fish』(ローズ・トローシェ監督、1994/5)や、世界各地の批評家に絶賛されたアメリカのレズビアン・ゲイ史を軸にした実験的ドキュメンタリー映画『ナイトレイト・キス』(バーバラ・ハマー監督、1992/6)、ハリウッド映画が隠しながらほのめかしてきた同性愛を120本の作品と関係者証言でたどる『セルロイド・クローゼット』(ロブ・エプスタイン&ジェフリー・フリードマン監督、1995)など、エポックメイキングな作品の公開が相次いでいたので、紹介しがいがあった。