ヤクザの腕を日本刀で切り落とし、窃盗グループを率いて数億円を荒稼ぎ――。1980年代後半に中国残留孤児2世、3世を中心に結成され、その凶悪さから恐れられた半グレ集団「怒羅権」。その創設期のメンバーで、13年間刑務所に服役した筆者・汪楠(ワンナン)氏の著書『怒羅権と私 創設期メンバーの怒りと悲しみの半生』(彩図社)が話題だ。
「包丁軍団」と呼ばれた怒羅権の荒れ狂った活動の実態から、出所後に犯罪から足を洗い、全国の受刑者に本を差し入れるプロジェクトを立ち上げるまでの壮絶な人生を描いた汪氏の自伝から、一部を抜粋して転載する。(全3回の2回目/#1、#3を読む)
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ヤクザと「怒羅権」の本当の関係
怒羅権はヤクザへの襲撃を繰り返していましたが、92年頃になると両者は癒着するようになっていきました。いわば、協力体制を築くようになったのです。
主な理由は2つあります。
1つは怒羅権の主要メンバーの引退です。日本の暴走族は18歳で卒業するというルールがあり、怒羅権もそれに則りました。卒業した面々はOBと呼ばれます。しかし足を洗うわけではなく、怒羅権としての活動を続け、マフィア(半グレ)化していきます。中には組に所属する者も出てきました。
肝心なことは、彼らはOBであっても怒羅権の核であり続けたことです。一方で、暴走族として活動する下の世代とは関係が切れていったため、マフィアとしての怒羅権と暴走族としての怒羅権は分かれていきました。
もう1つはヤクザが人材を求めていたことです。怒羅権は横のつながりが強く、1人が声をかければ50人でも100人でも応援に来てくれます。つまり怒羅権のメンバーを組に入れれば、組織犯罪に必要な人材が容易に確保できました。
こう語ると、怒羅権がヤクザを襲撃していた事実と矛盾するように聞こえますが、ヤクザ自体が一枚岩ではなく、怒羅権と持ちつ持たれつの関係をもつ組もあれば、敵対する組もあったというだけの話です。当時、住吉会や山口組など大手の組のほとんどには怒羅権のメンバーがいました。
事実、私も17歳からある組に所属していました。