「祝日」と「祭日」の違い、わかりますか?
大正15年12月25日、陛下の崩御あって、昭和に改元。
あらたに「4月29日」が天長節となり、「12月25日」が大正天皇祭(先帝忌)となり休日となった。
同時に「7月30日の明治天皇祭」「8月31日の天長節」「10月31日の天長節祝日」がなくなった。
おそらくこの「7月30日の明治天皇祭」がなくなったこととのつながりだとおもわれるが、「11月3日の明治の天長節」が「明治節」としてあらたな休みとなった。明治帝を偲ぶ日として命日ではなく、誕生日が復活したわけである。
「祭」について少し説明をしたほうがいいだろう。(もちろんすでにご存知の方も多いだろうが)
先だってNHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる!」で「冠婚葬祭の冠って何」という設問が出ていて、ものすごく驚いたのだが(冠はさすがに知ってる人がそこそこいるだろうという個人的な感覚である)街の方々に聞いてみて、かなり年を取った人たちにも「冠とは何か」に答えられない人がいて、「みんな伊勢物語を初段からは読まなくなったのか」と嘆いていると、大学の国文の先生をやっている後輩から「あ、初段はちょっとエロだから避けられているんでしょうね」と教えられて二重にショックを受けてしまった。
しかし「冠婚葬祭」では、「冠」より「祭」のほうが理解されていないのではないだろうか。
「冠婚葬祭」は「人がましく生きるための人生の儀礼」が並べられている。
いちおう順に並んでいる。
「冠・大人として認められ」「婚・結婚して」「葬・死んで葬られて」が冠婚葬で、そのあとに「祭」がある。「祭」は「葬」よりあとのことだ。
「祭」は死んだあとも(おもにその命日に)おもいだされること(祭られること)を指している。
「成人して、結婚して、葬式で送られて、死んだあとは命日に祭られる」というのが人の生涯で、「死んだあとにおもいだされる」というところまでセットになっているのが「人が生きる」ことだったのだ。
たぶんそのへんがいまはわかりにくい。個人で生きて個人で死ぬと、「祭」に対する感覚が薄くなっていく。
「亡くなった人を偲ぶ」ということはいまでもある。また「御霊を慰める」つまり「慰霊」はいまでもおこなわれる。
「8月6日の広島」「1月17日の神戸」「3月11日の東北(東日本)」に、いまでも多くの人が手を合わせるわけで、その感覚が「祭」のおおもとである。
大事な人が亡くなった日を覚えておいて、毎年、その日にその人のことを「マツる」(祀る、祭る)のが「祭」である。