このときの勅令で示された「大祭祝日」は10である。
元始祭 一月三日
新年宴会 一月五日
紀元節 二月十一日
春季皇霊祭 春分の日
神武天皇祭 四月三日
明治天皇祭 七月三十日
天長節 八月三十一日
秋季皇霊祭 秋分の日
神嘗祭 十月十七日
新嘗祭 十一月二十三日
明治の「天長節 十一月三日」と明治の先帝祭「孝明天皇祭 一月三十日」が除かれた。
大正天皇の誕生日は「残暑厳しきころ」
大正時代の「天長節」は、その後、少し変転する。
すでに大正元年の朝日新聞紙面に、時期に対する懸念が書かれていた。
「先帝(明治帝)の御誕辰当日は、菊花の節にしてこのうえなき好時節であったが、今上陛下の御誕辰は残暑厳しきころなれば、毎年、葉山、塩原、日光等の御用邸に避暑あそばされ、青山御所にて祝典をあげさせられたまうことは昨年の一回だけ」とのことで、冷房施設のないこのころ、陛下は(当時は皇太子殿下は)夏はほぼ東京で過ごしていなかったという指摘である。皇居に陛下がおられないのに、天長節のお祝いの会が開けるのだろうか、という疑問が呈されている。
翌年、大正2年の7月、侍医のコメントが載っている。
7月に入り葉山で過ごされている陛下は、7月30日の「先帝祭」には一度、東京に戻られるものの、8月に入ったらすぐに日光へ避暑に出向かれる、そのまま現地に9月半ばまで滞在の予定、というのが侍医のコメントである。だから「8月31日の天長節の祝賀」は9月中旬以降になるべし、との記事が出ている。
7月15日の新聞紙面には、「8月31日の天長節は神殿における祭典は行われるが、内外臣僚を招いての祝宴は秋冷の候まで延期される」と政府が決定したとの記事が出て、その数日あとに、「その祝宴の日付は10月31日」と決定したと載っている。
「大正元年勅令第十九號中『天長節、八月三十一日』の次に左の如く加ふ『天長節祝日 十月三十一日』」
誕生日と誕生パーティ日、どっちも休み
大正天皇「天長節」に加えて「天長節祝日」も制定され、宮内次官の談話として、国民はこの両日ともに「聖寿の無彊を寿ぐため」、国旗を掲揚して奉祝してもらいたい、とコメントしている。
8月31日はお誕生日としてお祝いし、10月31日を「お誕生日祝いする会の日」としてお祝いすることになったのだ。誕生日と誕生パーティ日に分けられ、どっちも休みとなった、ということである。大正年間は「天長節」に関する休日が2回あったのだ。
まあ、冷房のない時代は大変だったということだ。しかも、日本の気候に合っていない「西洋の服装」を正装としているから、盛夏のころはそういう格好で集まるのはやめよう、ということになった。軽装ですますとか、クールビズで集まるというような発想がない。
「儀礼」はそのしきたりを守らなければならないから、格好を変えるのではなく、日付を変えたのである。そういう時代だったのだ。
当の陛下が8月には東京に、つまり皇居におられないのだから、そこでの祝賀会をやりようがないというのがすべてであろう。