もっとも河野も安倍を含めた長老まわりをしている。派閥の首領・麻生太郎に「安倍氏の了解を取れなきゃダメだ」と言われたこともあってか、安倍のもとを訪ねては「ご懸念には及びません」と安心させようとしたという(サンデー毎日9月26日号の鈴木哲夫による記事)。
そうした場で河野は原発の再稼働の必要を認め、また「女系天皇を容認すると言ったことはありません」とかつてブログで主張したことを否定するのだが、それでも安倍は「あぁ、河野は認められないね」と言うのであった(週刊文春9月23日号)。
河野の言うところの「本来の保守」とは?
このように安倍に嫌われる河野だが、その根本は「保守」観の違いにある。その意味で面白いのが、9月17日に行われた各候補者による所見発表演説だ。
ここで河野は、「本来、保守とは度量の広い中庸な、そして温かいものであります」と述べている(注1)。左右の極端を排した穏当さが保守主義の要諦ということだろう。ポイントは「本来」と前置きしていることだ。これは河野が言うものとは違う、保守まがいのものが世に蔓延っていることを示すためだと取れる。
実は河野が9年前に著した『「超日本」宣言』(講談社・2012年)にもほぼ同じフレーズが出てくる。「本来、保守主義とは、度量の広い、中庸な、そして温かいものであったと私は思います」という具合だ。ここではこう続いている。「一部の保守を名乗る人間が、排他主義的な外国批判を繰りかえしていますが、これが保守主義とはまったく相容れない活動であることは言うまでもありません」。これは当時、猖獗を極めたネット右翼を指していよう。
では、今回の演説でも「本来」と前置きしているが、それは一体、何を/誰を本来の保守とは異なるものと言おうとしてのことなのか。
高市が繰り返す「守り抜く」
この演説会で高市は「私は国の究極の使命は、国民の皆さまの生命と財産を守り抜くこと。領土・領海・領空、資源を守り抜くこと。そして、国家の主権と名誉を守り抜くことだと考えております」と述べている(注2)。安倍のキャッチフレーズは「日本を、取り戻す。」であったが、高市がここで繰り返す「守り抜く」は、安倍の「取り戻す」の言い換えともいえる。