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 なぜかといえば、生活圏で接触する移民・難民系の人たちの多くが、なんだかんだいってそれなりの常識感覚と礼儀をわきまえた存在であることが次第に実感されるからです。重犯罪を犯す一部の者たちの印象を、まっとうな大多数の人たちの印象が上書きしていく感じですね。

写真はイメージです ©iStock.com

 もちろん実際に移民系犯罪に巻き込まれたり、運悪くバッドマナーな隣人として移民難民に遭遇してしまった人たちは「そんなの納得できるか!」と感じるわけで、それはそれで人間心理として当然ですけど、世間の大多数の受け止め方は「やっぱり移民政策は良くない!」というよりも、「ハズレに当たっちゃったんだね……」的な感じになります。「慣れ」のもたらす一般的趨勢なのかもしれません。

ドイツ人は「損得」を大事にする

 総合的にいうと「確かに不安要素はあれこれ恒常的に存在するけど、次第にまあそれなりの許容範囲に収まるし、移民側もドイツの習慣にうまく染まる人が多いし、そのへんで居心地よさのバランスが取れるっぽいから、ま、いいんじゃないですか」というのが、ドイツ人たちの平均的なインプレッションだと思われます。何より、移民系の皆様のおかげで国内産業が回っている、という認識もありますし。

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 そんなわけでドイツ社会全体として、さまざまなメリット・デメリットを総計・勘案した結果(そう、ドイツ人はミクロ的にもマクロ的にも「損得」の尺度にこだわる……)、「移民政策はおおむね成功だった」という評価でいちおう落ち着いているように見えます。また、その上でたとえばメルケル個人をああだこうだとディスるのがドイツ的なインテリしぐさだったり。

12月2日に退任式を行ったメルケル首相 Ⓒ時事通信社

日本で言うと、たとえば入管

 とはいえ、特に異文化ルーツの移民たちの「定着」については、大多数の安寧のためのしわ寄せが特定の「焦点」に蓄積しているように感じられるのが気になります。たとえばイスラム系住民の、特に不満層の間でしばしば発生する「名誉殺人」などへの対応について。

「名誉殺人」とは、婚前性交渉をした女性や同性愛者の男性を、「一家の名誉を守るために」親族が殺害することです。私は実際にキール市での裁判を傍聴したことがあるのですが、事件そのものの理不尽さや被告の「文化性の確信犯的な悪用」ぶり以上に、担当者――つまり、裁判官、検事、法廷通訳者、法廷警察――たちの間に隠しようもなく漂う倦怠感と消耗感が印象的でした。

 イスラム教文化の尊重と法律の間でなんとか納得できる落とし所を見つけようとして、マジメに取り組もうとする人ほど神経の削られっぷりが凄いぞコレは、という……。

 しかもなんというか、特に問題の「負」の側面で矢面に立っている人たちのストレスは、優先度が高い問題としてあまり認識されていない気が。でもそういったアレコレの蓄積が、既存の理性的文脈では対応できない課題となり、いずれ思わぬ形で社会を侵蝕するかもしれない、という感触がありました。

 日本でこれに似た情景は、たとえば入管職員の雰囲気ですね。収容者に対する姿勢の問題などで何かと槍玉にあげられがちな(実際、問題はあるのだろうと思う)彼らですが、彼らも彼らで窓口業務で何かと超ストレスフルな事態に日々延々と直面し続けているわけです。

 疲弊を隠せない表情で真面目に業務しているのを(そして彼らを襲うストレス事象をも)実際に間近で見てしまうと、単なる勧善懲悪的な尺度では割り切れない、もっと深く汲み取るべき「闇」や「心の限界」がここに存在するように感じます。