しかし、母国日本においては、高貴な身分にある人々は天皇家でも武家でも一夫多妻が一般的であり、歴代天皇の約半数が側室を母に持つ庶出だという現実があった。また、何よりも日本の一般社会では男性を女性よりも上に見る男尊女卑の価値観が徹底している。富国強兵を目指す時代でもあり、女帝の選択肢を残すことが日本の国づくりにおいては難しい状況でもあった。
翌年に帰国した伊藤は、悩みながら憲法と皇室典範の作成に着手する。当初は「男系男子を基本としつつ、やむを得ない場合には女系で継ぐ」と考えていた。現に1886年頃に発表した皇室典範の草案「皇室制規」では女系を容認している。
「女帝を認めず男系男子に限定するべき」
しかし、これに真っ向から異を唱えたのが、伊藤を補佐する立場にあった法制官僚の井上毅だった。彼は嚶鳴社の「女帝を立つるの可否」論争における反対派の意見を引用した反論文「謹具意見」を提出。「女帝を認めず男系男子に限定するべき」と強く主張した。熊本藩士の家に生まれ育った井上は儒教的な男性優位の伝統の中で育ち、そうした信条を彼自身も強く持っていた。
この井上の反論に対して、伊藤は意外なほどあっさりと、これを聞き入れ、女帝容認という自説を手放し、「皇位継承は男系男子に限る」とする井上の意見を取り入れる。だが、その一方で、井上に折れず、自分の意見を押し通した箇所もあった。それが「天皇の譲位(生前退位)」である。江戸時代までは生存中に退位し、天皇の位を次代に譲ることが、当たり前に行なわれていた。井上はこの伝統を残すべきだと主張したが、伊藤は却下し、「天皇は崩御するまで終身、天皇であり続けなければならない」として、生前退位を否定する文言を皇室典範に入れる。生前退位をきっかけに皇統をめぐる争いが起こり、国が乱れることを危惧したからだろう。