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「展示室を開いていいのか」シベリアの都市と友好締結してから46年…“ロシアとの友情”を深めてきた自治体の苦悩

「展示室を開いていいのか」シベリアの都市と友好締結してから46年…“ロシアとの友情”を深めてきた自治体の苦悩

岐路に立つ“ロシア交流” #1

2022/05/19

genre : 社会, 国際, 歴史

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 1960年8月6日に新潟港を出港し、日本海に面したナホトカ港に上陸。そこから鉄道でハバロフスク市へ向かい、シベリア横断鉄道に乗り換える。イルクーツク市からさらに飛行機でモスクワを目指すという旅程だった。

 9月6日に新潟へ戻るまでに様々な土地を訪れ、旧ソ連の一部だった現在のウクライナにも足を踏み入れた。ロシア軍の侵攻で激戦の地となったハリコフには8月21日~22日、首都のキーウ(ロシア語ではキエフ)には8月23日~25日に滞在した。

「ソ連には、よい感じを持っていなかった」

 森元町長は保守系の政治家だ。しかも、旧日本軍の軍人で、旧満州で対ソ作戦に従事したこともある。このため「ソ連には、よい感じを持っていなかった」という。だが、滞在時に目にした出来事が認識を一変させた。

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 まず、日本産業見本市で「君が代」の演奏とともに掲揚された「日の丸」に、旧ソ連の人々が脱帽し、直立して敬礼するのに心を動かされた。さらに、旧ソ連に抑留された旧日本兵が眠るイルクーツク市やハバロフスク市の日本人墓地を訪れた時、きれいに清掃されているのを見て感動した。

 極寒の異国で故郷を思いながら命を落とした旧日本兵について、森元町長は他人事に思えなかった。というのも、終戦は南洋のトラック諸島(現チューク諸島)で迎えたものの、南方派遣されるまでは旧満州に駐留していたからだ。もし転戦の命令が出なければ、自身もシベリアに抑留されていたかもしれなかった。

 しかも、中国戦線で迫撃砲弾を受け、九死に一生を得るような経験もしていた。

初期の旧ソ時、森茂喜・元根上町長は集まった町民にバンザイで送られた。それほど遠い国で、無事に帰って来られるかどうかも分からなかったのだという

 森元町長の没後、町民らがまとめた伝記によると、1960年の訪ソ体験がきっかけとなり、「国家体制は違っても、ソ連の人達と友好を深めて日本海を平和な海にしなければならない。(ロシア人も)一人ひとりの人間性は素晴らしいものを持っているから、そこを大事にしていきたい。『友情に国境なし』と考えるようになった」と語っていたという。

子供の親善使節団を交換し合う

 森元町長はその後、何度も旧ソ連を訪れ、シベリアのバイカル湖の近くにあるイルクーツク州のシェレホフ市を交流先に定めた。同市は1953年、東シベリア最大のアルミニウム工場建設に伴って造られた新興都市だ。石川県の資料によると2020年の人口は約4万3000人。約4万9500人の能美市とは同規模である。

 こうして「イデオロギーを抜きにした人間同士の交流」が始まり、双方から人が行き来した。ただ、政府は国家体制の異なる旧ソ連との交流を快く思っていなかったようで、両市町の友好締結は1976年まで待たなければならなかった。

 その間にも、旧根上町では住民らが民間の親善協会を結成し(当初は日ソ協会根上支部)、少しでも言葉を話せるようにしようとロシア語講座を開くなどした。ロシア映画鑑賞会も催した。さらには、ロシア料理の講習会、シベリア抑留展と、相手を知り、自分達との関係も見つめ直すような様々な企画を行ってゆく。

 双方に結成された親善協会のメンバーがお互いに訪問を重ねたほか、バレーボールやサッカー、陸上競技、野球といったスポーツ交流も行われた。文化使節団も派遣し合った。

 中でも力を入れたのは、子供の親善使節団の交換だ。