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 だが、どうしてなのか。何が問題なのかとなると答えは判然としない。人口減少が原因なのか、グローバリズムと情報化に乗り遅れたからか、改革が進まないからなのか、財政赤字が問題なのか、イノベーションの出遅れと生産性の低下が問題なのか、政府の失政なのか、企業家の意識が低いからか、古い習慣と規制のせいなのか、はたまた中国が悪いのか。毎月の論壇誌や新聞・テレビ等のマスメディアを見れば、ありとあらゆる犯人捜しが掲載され、その候補は出尽くしている。だとすれば、それぞれの犯人候補を断罪すればよいわけで、「こうすれば日本は復活する」式の勇ましい提言も次々と繰り出される。

 こんな状態が、長く見れば、バブル崩壊の90年代以降30年以上続いているのである。そして、実際には、そのけたたましいほどの百家争鳴がかえって事態を混沌とさせているのではなかろうか。「専門家」と称するものの見解が対立し、誰も確かな見通しを持つことができない。また、多岐の分野において問題はいくらでも指摘できるし、その分野の専門家もいくらでもいる。専門家のアドヴァイスのもと、政府も何らかの対策を打ち出す。だがすべてが場当たり的で、そこに全体像が見えないために、結局、何をやってもうまくいかない。30年にわたって「改革」が連呼され続けてきたにもかかわらず、ほぼゼロ成長で、政治への信頼は失墜したままだ。

 おそらく、本当の課題は、特定の分野にあるのではなく、それを全体として見る見取り図の欠如にあるのだろう。歴史や世界を見渡し、そのなかで日本の図像を描き出す指針がなくなってしまったのである。見取り図の描きようがないのだ。だから、財政、イノベーション、所得格差、福祉、高齢化、教育、災害、環境、エネルギー、少数派の権利、それに安全保障(防衛)など、いくらでも個別の「問題」は指摘でき、それぞれの分野で「識者」が持論を述べる。確かに問題は山積している。だが、それをトータルに見る「文明論」が欠如している。われわれは、いかなる文明の中にいるのか。この文明の現状はいかなるものなのか。こうした論点がすっぽりと欠落しているのである。

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中心メンバーの香山健一氏 ©文藝春秋

ローマ帝国の衰退を参照して日本を論じる

 そこで『日本の自殺』を改めて読みかえしてみる。本書の最大の特徴は、何といっても、「日本の衰退」を壮大な文明論的な観点から論じ、しかもその文明論としてかの「ローマ帝国の衰退」を参照するという創見にある。ローマ帝国の衰退は、ゴート族やペルシャ人などの外部の「野蛮」の侵攻によって引き起こされたのではなく、その内部からの自壊にあった。ローマの崩壊は、その都市化、領土の拡張、富の蓄積、大衆の消費文化や享楽などといったローマの成功そのものの帰結だ、というのである。

 言い換えれば次のようになる。ローマの成功は経済的豊かさと巨大な都市化をもたらした。だがそれこそが伝統的共同体の破壊と大衆社会化状況を出現させ、その結果、市民・大衆の判断力や思考力が衰弱し、「パンとサーカス」という活力なき福祉国家へと行き着いた。そのことが福祉コストの増大やインフレを招き、また放埓なまでの自由、エゴイズム、悪平等、道徳観念の欠如を蔓延させるという悪循環へとローマを沈めていったのである。

 しかもこれはローマに限らず、普遍的な文明没落の法則とでもいうべきものであろう。この文明没落のサイクルをローマ人は自覚することができなかった。したがって、ローマは蛮族による侵入ではなく、市民の「魂」の荒廃によって、つまり自らの「内なる野蛮人」によって崩壊した。自壊していったのである。

大人が子供に合わせようとする社会に

 ローマの崩壊についてのこの解釈は特に目新しいものではなく、モンテスキューやギボンのローマ帝国衰亡史を踏襲したものといってよいが、本書の白眉は、この「文明の没落観」を70年代から80年代の日本に重ね合わせて、驚くべき説得力を発揮した点にある。論文が掲載された75年に著者たちはすでに次のように論じていた。いくつかのポイントがある。

 日本が達成した豊かさの結果、人々は精神の自立を失って、大量生産・大量消費に依存する万事「使い捨ての生活」へとなだれ込んだ。社会はマーケティング戦略に踊らされ、新奇なもの、一時のものに高い価値を与え、その結果、欲望はたえまなく刺激されて肥大化し、精神や生活の安定は失われる。