また、大衆社会化は、豊かさを社会全体に行き渡らせたものの、その代償として、人間の思考力、判断力、それに倫理的能力の全般的衰弱と幼稚化をもたらした。こうした社会は、子供を大人に引き上げようとはせず、逆に大人が子供に合わせようとする。「適切なことと適切ではないこと」を見分ける繊細な判断力の欠如、他人の意見に対する尊重の欠落、過大なまでの自己愛。まさしくかつてホイジンガーが述べた現代文明の「幼稚化(ピュアリリズム)」そのものである(ホイジンガー『あしたの陰りのなかで』1935年)。
さらに、情報化が、人々から直接的経験の感覚を奪い取ってゆく。マスコミの発達や大衆教育の普及は高度文明のあかしであるが、同時にそれは知力の低下や倫理力の全般的衰弱をもたらした。人々は、品質の悪い情報環境に取り囲まれて、皮相な知識や真偽不明のあやうい情報の受け売りに終始し、自分自身の直接的な経験をしっかりとみつめて自分の頭で物事を考えることを停止した。
そこで、経験の希薄化に対して、記号的な世界が膨張する。人々は、マスコミによって見せつけられる膨大な記号的世界をいわば「疑似経験世界」とみなしてしまい、場合によっては現実とは似ても似つかない虚構の世界に身を委ねることになる。情報世界と現実世界の乖離は、現実生活において様々な不適応を引き起こすだろう。かくて社会的規模での「情報過多による神経症」が出現する。ここでもまた、情報化は、人々の思考力、判断力、それに情緒性を衰弱させ、文明のもたらす幼稚化と野蛮化をとめどなく拡大してゆくであろう。
最後にもうひとつ述べておけば、文明の発達は多かれ少なかれ「平等主義のイデオロギー」を生み出した。ところがそれは、共同体を解体し、大衆社会化状況を作り出し、社会を風化し砂漠化してゆく。要するに、社会は砂粒のようなバラバラな個人の集まりとなって確かな秩序をもたなくなる。
「戦後民主主義」は「疑似民主主義」
日本の場合、その典型が「戦後民主主義」や戦後の「民主教育」であった。たとえば、教育現場ではあえて成績のランクをつけず、人間の個性化や教育の多様化を排し、しばしばクラスの平均や底辺に水準を合わせた画一的教育が行われた。また、「民主教育」の推進者たちはエリート主義を否定したが、その結果として、たとえば「東大生もまた勇気あるエリート意識を喪失して幼稚化しつつある」。要するに、戦後民主主義の風潮のなかで、責任あるエリートが育たなくなったのである。
戦後民主主義はまた、次のような特徴を示していた。第一に、それは、批判を許さない独断的で非経験科学的なドグマであった。第二に、それは、多元性を認めない全体主義的要素をもっていた。第三に、それは、もっぱら権利の主張に傾き、責任と義務を軽視した。第四に、それは、政治的指導者に対して強い批判を投げかけるものの、建設的な提案はしない。第五に、それは、エリート否定の半面として大衆迎合的であった。
このように著者たちは主張している。むろん、これは民主主義そのものの否定ではない。戦後民主主義は真の民主主義ではなく「疑似民主主義」であった、と彼らはいう。真の民主主義は、決して大衆迎合をしないエリートや政治的指導者を必要とするのであり、社会集団や階層や意見における多元性を決して崩そうとはしないし、社会を画一化し、全体主義化するものではありえない。だが、日本の戦後民主主義のもつ平等主義(悪平等)のイデオロギーこそが、社会の均質化と画一化を推し進め、社会から活力をそいでいった。
これが「日本の自殺」のプロセスだ。しかも、それは、ほとんど「文明の法則」とでも呼びたくなる歴史過程にほかならない。そこで著者たちはいくつかの教訓を引き出した。列挙しておこう。第一に、国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭したとき、経済社会は自壊する。第二に、国民は自分のことは自分で解決するという自立の精神をもたねばならない。福祉主義はそれを壊す。第三に、エリートが「精神の貴族主義」を失って大衆迎合に陥ったときに国は滅ぶ。第四に、年上の世代はいたずらに年下の世代にへつらってはならない。第五に、人間の幸福は決して賃金の額や年金の多寡や、物量の豊富さによって計れるものではない。人間を物欲を満たす動物とみなすとき、欲望は際限なく膨らみ、人は常に不平不満にとりつかれる。
戦後日本は、確かに、物質的にはめざましい再建を果たしたが、道徳は荒廃し、魂は荒みきっている。日本はその個性を見失って茫然と立ち尽くしている。このように本書は述べるのである。
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京都大学名誉教授・佐伯啓思氏による「『日本の自殺』を読み直す」全文は、「文藝春秋」2023年1月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載しています。
「日本の自殺」を読み直す