中学時代を通して、男性教師から性暴力を受けていた栗栖英俊さん(46)。被害から30年以上が経ったが、2022年、加害教師を相手取って裁判を起こし勝訴した。栗栖さんは勝訴後、「実名告発」によって同様の被害に苦しんでいる人たちにメッセージを投げかけている。性暴力の実情を長年取材するジャーナリストの秋山千佳氏が徹底取材した。
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教師から性暴力、34年後の勝訴
「新年あけましておめでとうございます。今年は何時になく、平穏な気持ちで元旦を迎えることができました」
2023年正月。栗栖英俊(46)から届いたメールの書き出しだ。
栗栖は中学時代を通して、担任であり部活動顧問でもあった男性教師から性暴力を受けていた。以来、「平穏な気持ちで元旦を迎える」こともなく、30年以上の歳月を重ねた。
しかし栗栖は2022年、加害教師を相手取って自力で裁判を起こした。刑事事件としては時効を迎え、民事裁判も損害賠償請求権が消滅しているとして複数の弁護士から断られた。それでも被害の事実を公に認定してもらう方法を考え抜き、本人訴訟に打って出たのだ。
そして同年秋、勝訴を掴み取った。
判決確定後には、実名を明かした「教師から性暴力、34年後の勝訴 『重い扉』開けた男性の願い」という記事が出た(筆者執筆で同年11月、ヤフーニュース特集で公開)。自身と同じような思いをしている人、特に光の当たらない男性の性被害者に、栗栖英俊という人間を通して、人生そんなに悪いものじゃないよと伝えられれば――それが栗栖の願いだった。
訴えは大きな反響を呼び、男子の性被害を認識してこなかった日本社会の「重い扉」まで開くことになった。この連載第1回の石丸素介は、記事に勇気を得て声を上げた一人だ。栗栖はそんな反応に励まされて自らのサイトを立ち上げ、メディアの取材が続いた。時を同じくして、週刊文春やBBCによる故・ジャニー喜多川氏の性暴力報道もあり、男子の性被害がこの国でも注目されるようになってきた。
栗栖は自身が発信する意味をこう述べる。
「突発的な性暴力と違って、学校内性暴力には一定の手口がある。そのプロセスを周知することは新たな被害を防ぐのに役立つはずです」
一定の手口とは、大まかに次のとおりだ。①ターゲット(被害者)を見定める→②ターゲットに接近・孤立させる→③秘密を守らせる関係を築く→④性暴力への抵抗力を奪う
今回の記事の前編では、栗栖自身の被害から、加害者が子どもを「支配」するプロセスが語られる。また後編では、周囲および社会の(特に男子の性被害への)「黙殺」が加害者を助長させ、逆に被害者側を孤立させる実情が明かされる。
これらは栗栖の個人的体験にとどまる話ではない。学校内性暴力はもちろん、力関係を利用した性暴力全般には共通する構造があるからだ。
被告によるスクールセクハラ行為は、原告が人生で様々な幸福な経験をする機会を奪い、原告の人生を破壊した。(※以下、斜体部分は判決文より引用。一部固有名詞を伏せる)
1988(昭和63)年春、栗栖は千葉県松戸市立中学校への入学を控えていた。地元の小学校の優等生だった身長146cmの少年は、入学式で新入生代表として「誓いの言葉」を述べることとなった。その準備のため、入学前の中学校へ出向いた。
出迎えた担当教員が、当時30代の国語教師・村越康(仮名)だった。
第一印象は「柔和な顔つきで良い先生そう」。体育館で予行練習しよう、と優しく声をかけられて緊張がほどけた。
ただその予行練習で、ちょっとおかしいなと思うことがあった。
「私が胸を張って歩いてみせたら、それはダメだと言われたのです。新入生は不安を抱いて入学するのだからもっと下を向いておどおどしなさいと。あれっとは思いましたが、子どもは子どもらしくと言うような大人はどこにでもいるし、あまり気にせず言われたとおりにしました。今思えば、その時からターゲットの選定が始まっていたのかもしれません」
入学すると、担任は村越だった。栗栖はもともと別のクラスに決まっていたが、そのクラスに似た名字の生徒がいるという理由で入学式直前に差し替えた、と聞かされた。以降、卒業まで担任が変わることはなかった。