三宅 細部にこだわっていない、粗削り、雑、という印象のワードでした。けれども、粗い作り方になっていたのは、効率的にどんどんゲームを仕上げていく仕組みを作ろうとしていた過程のものだったんです。そんな考え方があったからこそ、そこにAIが求められた。広大なワールドを作ったらそこにAIを放り込んであとはよろしく、みたいなゲーム作りをイメージしていたんですね。それが90年代後半から2000年代初頭に、アメリカで起きていたことです。
それが次第に形になっていきます。複雑な地形に臨んだ際に進行ルートを見つけるとか、敵の接近を認識した時にどう身構えるか決めるとか、AIキャラクターの能力は高度になっていきました。そして広大な空間で一人称プレイヤーが多数の敵と撃ち合いをするFPS(ファーストパーソン・シューティング)ゲームが出てきた頃から、真価を発揮しはじめるわけです。FPSはやがて大人気ジャンルとなり、1000万本タイトルが続出するようになります。そのブームに日本のメーカーは乗れなかったんです。
日本のゲーム業界が「AI研究」で遅れをとった理由
――うーん。多くのクソゲーを作ってしまったりもしながら、洋ゲーの方向性は一つの正解へとつながっていたわけですね。そして、AI研究、ロボット研究など最先端のアカデミックフィールドとも結びついて着実に成果を出していったということには、アメリカのソフトウェア産業のダイナミズムを思い知らされます。
その頃、日本の多くのメーカーは、大量にCGクリエーターを雇用して彼らの職人的な技量を鍛え上げることばかりに腐心していました。もしかしたらそれは間違っていたのかもと考えるとつらいですね。日本のゲームには、職人芸がある。心がある。それが強さの秘密なんだ、と、1980年代から世界を制覇していた日本のゲーム業界には、そういう自負があったと思います。今振り返ると、それが1990年代には必要な進歩を阻む足かせとなったのでは、と。ゲーム制作のシステム化、ゲームの挙動のオートマチック化に、手をつけなかった。
当時のゲーム制作現場には、そういうことを言い出したら叱られるような雰囲気があったと言っても過言ではないと思います。優秀な職人さんが揃っているお寿司屋さんで「寿司ロボットを導入しましょう」と言ったら怒られますよね。そんな感じだったかもしれません。