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 慶應義塾大学病院に2カ月いてから、杉並のリハビリ病院へ転院するとき、会話は少しできるようになっていました。さらに2カ月してから退院し、自宅からリハビリに通いました。

 びっくりしたのは、ヘビースモーカーだった大山が、灰皿を見て「これ、何?」と言ったことです。「灰皿ですよ」「誰の?」「えっ。大山さん、タバコ吸ってたんですよ」「えっ、私が吸ってた?」って。タバコを止めたことだけは、記憶をなくして正解でした。

 脳梗塞から1年半後、おもしろい仕事が入り、これならやれると思い、1度だけ仕事に復帰しました。『ダンガンロンパ』というアニメの声録りです。先に声を録っておいてから絵を作るやり方だったので、楽だったのです。「やりますか」と訊いたら「うん」と言う。台本はちゃんと読めたし、仕事だとわかるとピッとスイッチが切り替わった感じがしました。

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 ところが徐々に徐々に、大山の態度や行動が変わっていきました。台所に立ち、鍋を空焚きしていることに気づかず、横で野菜を切っている。残った料理を詰めた容器を、リビングの引き出しにしまう。「テレビのチャンネルが替わらない」と怒っているので見てみると、エアコンのリモコンを手にしている――。そのうち砂川さんが、「ちょっとおかしいかもなあ」と言うようになりました。

「私はどこへ行くんだっけ?」

 私自身が変だなと思い始めたのは、会話がかみ合わなくなったのと、服を二重にも三重にも着てしまうことでした。Tシャツを3枚も着ていて、「暑くないんですか」と訊いても、「ううん、大丈夫」と言うのです。

 感情も激しくなりました。横断歩道の青信号が点滅してそろそろ赤に変わりそうなとき、走って渡る人がいるじゃないですか。「危ないじゃないのー!」と、その人に向かって大声で怒ることがありました。

「私はどこへ行くんだっけ?」という電話も増えました。タクシーに乗ったのに、行き先がわからないのです。地名や、山手通りとか目黒通りという名前も言えません。けれども道順は覚えているので、「次の信号を右に曲がって、左に曲がって」は言えます。だから、自宅に帰って来ることはできるのです。

 きれい好きだったのに、お風呂を嫌がるようにもなりました。砂川さんが「入っておいで」と言うとしぶしぶ行くのですが、1分もたたないうちに上がってくるらしいのです。ところが、まったく濡れていないので「入ってないじゃないか」と言えば、「入ったわよ!」とカッとなる。

砂川啓介さん ©文藝春秋

 そんなことが続き、砂川さんが入れるようになったのですが、男性ですし、うまくいきません。「ちょっと小林、ペコをお風呂に入れてやってくれないかな」と頼まれ、「ええ、いいですよ」と引き受けて、そこから私も介護に加わるようになりました。砂川さんは大山のことを、俳優座以来の愛称の「ペコ」と呼んでいました。

 ちゃんとしているときはちゃんとしているのですが、していないときはしていない。その差が激しいのです。ついに脳の精密検査をすることになりました。ところが、砂川さんは病院という場所が大嫌い。いつも大山には私が付き添っていました。直腸がんのときも、脳梗塞のときもそうでした。

 アルツハイマーという診断を受けて、私は「ああ、やっぱりな」と思いました。砂川さんに伝えたら、ショックだったようで何にも言いませんでした。予想はしていたけれど認めたくない、という様子でした。

 子どものいないお二人は、老後について40代の頃から考えていたようです。四字熟語の尻取りをしたり、「あれ」や「それ」という代名詞を使ったら罰金としてドラえもんの貯金箱に100円入れる、というルールはボケ防止のためでした。

 2013年、砂川さんに胃がんが見つかり、入院して手術をしました。病室へ毎日お見舞いに行ったのですが、大山は「具合はどう?」などと聞くわけでもなく、ボーッとしているだけ。それを見たとき、砂川さんはようやく「やっぱりペコは認知症なんだ」と実感したそうです。

 本記事の全文は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(「大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ」)。

文藝春秋

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大山のぶ代は夫 砂川啓介の棺に涙ぐんだ