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 ただ、少なくともこうして3路線が交わるということで、津山駅はまず第一に鉄道ネットワークの要衝になっているようだ。駅の構内はかなり広く、ホームの端から南西を見ると扇形の機関車庫も見える。

 機関車庫はさすがに現役ではなくて、「津山まなびの鉄道館」というプチ博物館として整備されている。ただ、その手前に広がる多くの線路にはいくつかの車両が留置されていて、鉄道運行の拠点であることを物語る。

 中国山地を走る鉄道は、山越えに次ぐ山越え。山の中を走ってゆく。蒸気機関車の時代には、山登りのルートは鉄道には厳しいものだった。津山駅のような拠点には機関区が置かれ、山越えの備えをしていた時代があったのだろう。

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©鼠入昌史

駅前には何やら人物像が。これは…誰だ?

 津山駅の駅舎は、北側にひとつ。立派な橋上駅舎のようなものがあるわけでもなく、昔ながらの小さな駅舎がポツンと建っているだけだ。ただし、駅舎の中にはコンビニも入っているし、駅前はバス乗り場を含めた大きなロータリー。機関区が置かれていた“鉄道の町”らしく、蒸気機関車も展示されている。

 そして、蒸気機関車の脇には何やら人物像が。近づいて見ると、箕作阮甫の像だとか。すみません、いったい誰なんでしょうか……。

 調べてみると、これがまた実に立派な人であった。

©鼠入昌史

 幕末の津山藩出身の医師で洋学者。ペリーが来航した折にはアメリカのフィルモア大統領の親書を翻訳したり、ロシアからプチャーチンがやってきた時には交渉団に加わって長崎に赴いたり。幕府が洋学研究の拠点として蕃書調所を設置すると、箕作阮甫はその首席教授に任命されている。

 その後も種痘の普及に貢献したり、多くの外国書を翻訳したりという功績も。近代日本の黎明期にあって、箕作阮甫さんは学問の面からとてつもない功績を残した人なのである。

 そんな人のことを知らなかった筆者は不学にもほどがあるのだが、それにしても駅前に近代日本を作った箕作阮甫さん。津山という町は、江戸時代の頃からかなり先進的な地域だったということなのだろうか。