そうしたなか、東京・永田町の吉田邸に“お手伝いさん”として住み込んでいた女性が、陸軍中野学校の諜報員の意を受けて“スパイ活動”をおこない、のちに吉田茂が憲兵隊によって逮捕されるのに一役買ったという逸話がある。戦後40年近くを経てから、その女性が週刊誌のインタビューに答える形で、その経緯について語っている(「サンデー毎日」1981年9月20日号)。

©AFLO 写真はイメージ

「近衛上奏文」文書に関わる吉田茂逮捕の背景に

 1943年春、神奈川県に住んでいた石田タキさん(仮名、当時20歳)は、近所の知り合いであるAから「吉田茂がお手伝いの女性を探している」という話を持ちかけられた。彼女は農家の長女で、地元の高等女学校では短距離走の選手。健康的な女性だった。

 東京に住んでいたタキさんの叔父もたまたま知人から吉田がお手伝いを探しているのを聞かされていたので、話はすぐにまとまった。

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 そうして働き始めてまもなく、Bという男性が吉田邸におはぎを持って現れた。

 戦時中おはぎは大変なご馳走だったため、みんなから歓迎されたという。

 タキさんは初めての休日、叔父の家に出かけるために吉田邸を出ると、なぜかBが待っていた。

「戦時中で切符が買えないかもしれない。叔父さんの家まで車で送ってあげよう」

 と言われ、彼女は不思議に思いながらも、車に乗った。

 叔父の家に到着すると、ほかにCという男性も来ていたという。

 A、B、Cの3人の男性はそこで自分たちが陸軍中野学校の諜報部員だと名乗り、彼女に切り出した。

「実は吉田さんは親英米派で、この戦争を早くやめたいと言っているらしい。これはお国にとっても重大なことだから、本当にそういう気持ちがあるのか確かめてほしい」

 タキさんは最初断ったが、お国のためと説得され、その場で引き受けたという。

 吉田邸には、近衛文麿元首相や鳩山一郎元文部大臣など、当時の有力者が頻繁に来ていたが、そのたびにタキさんは中野学校の諜報員に報告を入れていた。吉田邸には、憲兵隊から送り込まれた書生や使用人もいたが、吉田に気づかれ、クビになっている。しかし彼女は純朴さが信頼されたのか、スパイと疑われることはなかった。

 タキさんは、近衛や鳩山などの家へ手紙を持って使いに出される際も陸軍に連絡した。吉田の手紙は蠟で封印されていたが、中野学校の開封の専門家がやってきて、手紙の内容を写し取っていた。

 先に述べたように1945年4月、吉田茂は「近衛上奏文」(近衛が昭和天皇に戦争終結を上奏した文書)の作成に協力したことを理由に憲兵隊に逮捕される。それを知ったタキさんは申し訳ないという思いで夜も眠れない日が続いたという。結局、彼女は結婚を理由に実家に帰っていった。

 陸軍中野学校の卒業生は2000人以上と言われる。彼らは決して中野学校を卒業したとは口外しなかったが、公安部が警察内部で研修する際には、講師になった人もいたという。