“その人”は突然目の前に現れた
それでも何とか仕事をこなしていたある日、その人は突然目の前に現れた。短く刈りこんだ頭に浅黒い顔、立派なガタイ。1986年ドラフト4位入団、大野雄次さんで間違いない。週刊ベースボールの記事で飲食業に転身したのは知っていたが、まさか本人が直接築地で買い物しているとは……。軽めの買い物を済ませて店を出る大野さんを追いかけて声をかけた。
「あの、大野雄次さんですよね?」
「おお、そうだけど」
「自分、大洋ファンなんです。初ヒットも球場で見ています!」
「それは嬉しいなあ。兄ちゃん、そこの○○商店の子だろ?」
「そうです。大野さん築地にはよく来られるんですか?」
「よくも何も、俺毎日来てるよ。荷物が多い日は車で来るからさ、配達頼むよ!」
「はい!」
仕事に慣れるのに必死でそれまで気づかなかったが、プロ野球選手とそういう形で毎日顔を合わせられる。それは当時の筆者にとって、大げさではなくひと筋の光だった。とにかく日銭を稼がないといけない。夢や目標なんて考えられない。朝早く起きて雨でも嵐でも荷物を運び、とにかくその日一日を生き抜かないといけない。余裕のない中でそのことがどれだけ心の支えになったか。それから毎日、大野さんが来店すると努めて明るく挨拶する自分がいた。
「大野さんおはようございます!」
「おう!」
それだけで気分が高揚するのだ。
「右の大砲」だった大野さんのあの頃といま
大野さんは一般的にはヤクルト時代、シーズン2度の代打満塁弾や95年日本シリーズ初戦での代打ホームランが知られているが、筆者にとっては横浜大洋の田代富雄に次ぐ右の大砲である。1年目の87年6月25日、初の1軍昇格で初スタメン、初ヒットを放ち、その数日後には平塚球場で初本塁打が勝利打点に。次の試合では5番に座って3安打2打点。若手がなかなか台頭しない当時の大洋で26歳の子連れルーキー、大野雄次の出現はなかなかセンセーショナルだった。5年間の在籍中、レギュラー獲得はならなかったが1年目の5本塁打は将来を十分期待させるものだった。
大野さんは現在も東京・田町で鰻・牛タン料理『大乃』を営んでいる。10年前に取材で伺った際、引退して1カ月後には鰻屋で串打ち修行を始めたこと。当時高校生の息子さんが甲子園出場を果たしたことなどを嬉しそうに話してくれたのが印象に残っている。近年は富山の社会人クラブチーム、ロキテクノBCの監督を務めていたが(今年からシニアディレクター)、多忙な中で長年飲食店を続けるのは苦労も多い事だろう。そして市場が豊洲に移った今も、ご自身で仕入れに行っているのか、昨今のニュースを見るたびについつい気になってしまう。
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