「あれがターチ・ブゥシィ(二つ星)」、30代半ばの若い母ミホが、夜空に向かって右腕を高く掲げ、星座を指差しながら奄美語で星座名を宙に向かって叫びます。30代半ばを過ぎた父敏雄は傍で、海軍時代に支給されたらしい厚紙で作られている天球図(あるいは星座図)を片手に、星座の日本語名と位置を確かめています。
東京都江戸川区小岩に在った瓦屋根木造平屋の、路地のような通りに面して竹塀を巡らせてある、その塀の内側に沿って狭く細長い庭に並行した縁側で、棒立ちになって肩を寄せ合った2人は、多分、恋愛時代から夢の醒めぬままのような様子です。その側で遊ぶのは5歳に満たぬ男の子と、赤ちゃんから卒業しきれていない3歳の女の子、それは私と妹のマヤです。
雨が降っても、雷が轟いても、母と父は天体の変化と空気の流れを共に楽しもうとし続けました。戦後の復興途中の大都市や、まだ影も形もぼんやりしたままの工業地帯の空が、公害に見舞われる前、米国空軍による空爆後の焼け野原がまだそこここに残る1950年代、関東の夜空でも満天の星を経験できたのです。
奄美大島の底辺に張り付くようにして在る、加計呂麻島で育った母は、突然現れた兵隊だった父との恋愛に溺れたと聞いています。鳥や動物や魚介類を遊び相手にしてきた彼女は、男を連れて山川を自在に飛び回り、海中を魚のように潜りたかったに違いありません。彼女は心を燃やすことに無我夢中になり、彼は性的なことに引きずられ、互いに貪り合ったのでしょうか。真昼の太陽が焼き尽くした浜辺や、もう少しで煮えてしまいそうになっていた山の木々が、夜気に癒される頃、奄美では一年中輝いている天の川の下で、2人は熱い吐息に身を焦がしたのかも知れません。
母は死ぬまで恋愛の夢を捨てきれずに持ち続けていました。まるで大海で溺れまいと、木切れにしがみ付くように。
太陽が眩しければ、眩しいほど、日陰はより暗くなるように、明るい気持ちの母は、どこか陰鬱を好む当時の父に傷つけられているような感じがして、深い悲しみに沈む日も在ったようでした。父は小説家になりたくて神戸から上京したようなので、あるいは当時のふしだらで暗い顔をした小説家らしさを真似しようとしていたのでしょうか。家族にとって愉快な人物ではありませんでした。
2人はやがて都会を逃れ、母の故郷の奄美大島に根を下ろすことになりました。小学生になったばかりの長男と、奄美幼稚園へ通い始めることになる長女と一緒に。
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