森鷗外の名作「舞姫」。自身の子を宿す恋人を捨て帰国するクズ男が許せないと毛嫌いする読者も少なくないが、その背景に真実の涙の恋物語があったことをご存じだろうか。
「舞姫」が鷗外自身の体験を元にした作品であることは鷗外の家族も認めるところだが、ヒロイン・エリスのモデルについては、研究者らが消息を追い続けるも名前が特定できただけで、その人物像は杳として知れなかった。ひょんなことから調査の糸口を見出した私は、ベルリン在住の地の利を生かし動き始め、紆余曲折の末、ついに記録を発見。その結果を『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(2011年)にまとめた。
運命の人の名はエリーゼ・ヴィーゲルト。鷗外のドイツ留学の最後の滞在地、ベルリンの下町に暮らす女の子。刺繍や縫製など手先も器用で、掌上で舞いそうな華奢で愛らしい女性だったという。
恋人に裏切られたと誤解したエリスは生ける屍と化し、主人公・豊太郎はひとり帰国してゆくが、実は鷗外の恋人は来日を果たしている。
鷗外は上司と共に欧州出張をこなしながら帰国の途に着き、エリーゼは別の船で日本を目指した。
エリーゼは一等船室の客人であった。船室は三等級に分かれ、53日間の船旅は、船賃だけでも三等は440マルク、二等で1000マルク、一等は1750マルクかかる。下町娘には三等でも高額であり、個室にこだわるなら二等で事足りる。ところが彼女は上流階級の人々が集う一等に乗っていた。現在の円に換算すると200万円以上である。一等船客であったが故に、鷗外がその費用を負担したことが想像できる。
そしてこのほど、エリーゼがパスポートを取得していた記録が発見された。当時の旅券は王室発行の賞状のような形状で、行き先や渡航理由を添えて申請する。下町の娘が一人で太刀打ちできるものではない。おそらく鷗外も同行し手続きを踏んだのだろう。
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source : 文藝春秋 2023年7月号