鴎外の場合

日本人へ 第231回

塩野 七生 作家・在イタリア
エンタメ 社会 読書

 六十歳で死の床にあった森鴎外の遺言を代筆したのは、遺書にも「一切秘密無ク交際シタル友」と書かれた賀古鶴所(かこつるど)である。私のような鴎外好みではなくてもこれを読んだ人ならば、賀古とはどんな男だったのかと思うにちがいない。鴎外とは、外面的にはともかく心の奥底では、けっこうむずかしい人ではあったのだから。なぜその鴎外と四十五年もの歳月、いっさい秘密なき友人でいられたのか。

 賀古鶴所は、時代が明治に変る十三年前の安政二年に、遠江浜松藩の藩医の長男に生れた。津和野藩の典医の家に生れた鴎外とは、医者の息子という共通点がある。ただし二人の間には、七歳の年齢差があった。しかしこれまた当時の寮生活の決まりで、年齢差などごっちゃ混ぜだから、十五歳の林太郎少年は、七歳も年上の賀古と同室になる。この二人の馴れそめを『ヰタ・セクスアリス』から引用すると次のようになる。ユーモア小説仕立ての『ヰタ・セクスアリス』(性欲的生活)の中で、出色の笑っちゃう場面。

 ――この頃僕に古賀(賀古がモデル)と児島との二人の親友が出来た。古賀は顴骨(かんこつ)の張った、四角な、赭(あか)ら顔の大男である。安達という美少年に特別な保護を加えている処から、服装から何から、誰が見ても硬派中の鏘々(そうそう)たるものである。それが去年の秋頃から僕に近づくように努める。僕は例の短刀の柄(つか)を握らざることを得なかった。然るに淘汰(試験後の落第)の跡で、寄宿舎の部屋割が決まってみると、僕は古賀と同室になっていた。僕は獅子の窟(いわや)に這入るような積(つもり)で引き越して行った。古賀は本も何も載せてない破机(やぶれづくえ)の前に、ねずみ色になった古毛布を敷いて、その上に胡坐をかいて、じっと僕を見ている。大きな顔の割に小さい、眞円(まんまる)な目には、喜(よろこび)の色が溢れている。

「僕をこわがって逃げまわっていた癖に、とうとう僕のところへ来たな。はははは」彼は破顔一笑した。彼の顔はおどけたような、威厳のあるような、妙な顔である。どうも悪い奴らしくはない。「割り当てられたから為方(しかた)がない」(こちらも)随分無愛想な返事である。「君は僕を逸見(前の同室の年長者)と同じように思っているな。僕はそんな人間じゃあない」僕は黙って自分の席を整頓し始めた。(中略)

 古賀はにやりにやり笑って僕のする事を見ていたが、『貞丈雑記』を机の下に忍ばせるのを見て、こう言った。「それは何の本だ」「貞丈雑記だ」「何が書いてある」「この辺には装束の事が書いてある」「そんなものを読んで何にする」「何にもするのではない」「それではつまらんじゃないか」「そんなら、僕なんぞがこんな学校に入って学問をするのもつまらんじゃないか。官員になるためとか、教師になるためとかいうわけでもあるまい」「君は卒業しても、官員や教師にはならんのかい」「そりゃあ、なるかもしれない。しかしそれになるために学問をするのではない」「それでは物を知るために学問をする、つまり学問をするために学問をするというのだな」「うむ。まあ、そうだ」「ふむ。君は面白い小僧だ」

 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振(ふる)ってい過ぎる。僕は、(以前ある友人が僕を評した)例の倒三角形の目で相手を睨んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。(中略)

 僕は古賀と次第に心安くなる。古賀を通じて児島(鴎外のほとんど唯一の恋愛小説『雁』の岡田のモデル)とも心安くなる。そこで三角同盟(トリウムヴィラタス)が成立した。

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source : 文藝春秋 2022年12月号

genre : エンタメ 社会 読書