漱石の場合

日本人へ 第232回

塩野 七生 作家・在イタリア
エンタメ 国際 読書

『満韓ところどころ』とは漱石の軽いエッセイで、だから眠る前の読書には最適と手にとったのだが、これが大いなるまちがいであった。読み始めるや笑い出し、安らかに眠りにつくどころではない。だがこれくらい、漱石が貧乏書生であった頃からの親友の中村是公(ぜこう)が、四十代というオトナの年頃になってもどんな男であったかを活写したものもないのだ。ちなみに、漱石は是公と、是公は金ちゃんと呼び合っていた二人は同じ年の生れだが、東京っ子の金ちゃんに対して是公のほうは広島の産。冒頭からして次のように始まる。

「南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公から馬鹿と云われたって怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、(略)そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試(ためし)がない。『今度いっしょに連れてってやろうか』もおおかたその格だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍(はた)が迷惑するからと、すこぶる適切めいた事を云う」

 というわけで漱石は旧友の中村是公と一緒に満韓に渡ることになったのだが、出発の日も迫るというのに持病の胃病にやられてしまう。それで、総裁殿は先に発ち、漱石は後から行くことになった。ここから『満韓ところどころ』にもどる。

「鉄嶺丸の舷側を上るや否や、商船会社の大河平さんが、どうか総裁とごいっしょのように伺いましたがと云われる。船が動き出すと、事務長の佐治君が総裁と同じ船でおいでになると聞いていましたがと聞かれる。船長さんにサルーンの出口で出逢うと総裁と御同行のはずだと誰か云ってたようでしたがと質問を受ける。こうみんなが総裁総裁と云うと是公と呼ぶのが急に恐ろしくなる。仕方がないから、えゝ総裁といっしょのはずでしたが、えゝ総裁と同じ船に乗る約束でしたがと、たちまち二十五年来用い慣れた是公を倹約し始めた。この倹約は鉄嶺丸に始まって、大連から満洲一面に広がって、とうとう安東県を経て、韓国にまで及んだのだから少からず恐縮した。

 総裁という言葉は、世間にはどう通用するか知らないが、余が旧友中村是公を代表する名詞としては、あまりにえら過ぎて、あまりに大袈裟で、あまりに親しみがなくって、あまりに角が出過ぎている。いっこう味(あじわい)がない。たとい世間がどう云おうと、余一人はやはり昔の通り是公是公と呼び棄てにしたかったんだが、衆寡敵せず、やむをえず、せっかくの友達を、他人扱いにして五十日間通して来たのは遺憾である」

 大連に到着した金ちゃんも是公と再会したのだが、是公は満鉄の総裁だけに忙しい。ちょうどその時期にアメリカの軍艦が四隻も入港していたので、建設途上の諸々のインフラ施設の案内の間に、水兵にはベースボールの試合をさせたり士官たちには舞踏会を楽しませたりで、総裁以下の日本人全員が歓迎係になったよう。漱石は理屈をつけてそれから逃れはしたのだが、次に引用するのは、是公からの金ちゃんへの報告。

 ——後で本人に聞いて見ると、是公はその夜舞踏の済んだ後で、多数の亜米利加士官と共に倶楽部のバーに繰り込んだのだそうだ。そこで、士官連が是公に向って、今夜の会は大成功であるとか、非常に盛(さかん)であったとか、口々に賛辞を呈したものだから、是公はやむをえず、大声を振り絞ってgentlemen! と叫んだ。すると今までがやがや云っていた連中が、総裁の演説でも始まる事と思って、一度に口を閉じて、満場は水を打ったように静かになった。是公は固(もと)よりゼントルメンの後を何とかつけなければならない。ところがゼントルメン以外の英語があいにく一言も出て来なかった。(略)仕方なしに、急に日本語に鞍換(くらがえ)をして、ゼントルメンの次へもってきて、大いに飲みましょうと怒鳴った。ゼントルメン大いに飲みましょうは、たいていの亜米利加人に通じる訳のものではないが、そこがバーのバーたるところで、ゼントルメン大いに飲みましょう、とやるや否や、士官連がわあっと云って主人公を胴上にしたそうである——。

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source : 文藝春秋 2023年1月号

genre : エンタメ 国際 読書