芥川の場合

日本人へ 第233回

塩野 七生 作家・在イタリア
エンタメ 読書

 江戸っ子の甘ったれは助六の頃からの伝統だからしかたないにしても、龍之介の甘ったれは度を越している。

 その芥川の一の親友は、恒藤恭といった。恒藤とは後に婿養子に入ってからの姓なので、芥川と知り合った当時は井川恭。島根県は松江の生れで、芥川よりは四歳年長。なのに一高入学が同期なのは、中学卒業後に健康を害して療養していたからという。東京の下町に生れ真綿にくるまれるように大切に大切に育てられた龍之介少年は、中学時代の成績最優秀につき無試験で一高に入れたのだが、この新しい環境には言うに言えない不安を抱いていたようである。そのときに出会ったのが、井川恭であった。

 世の中にはときに、端整としか形容しようのない美男がいる。それが顔だけでなく全身に及ぶと、佇まいの美しい人、になる。芥川もその頃は江戸伝来の粋(いき)をごく薄いヴェールで隠した感じの美青年であったから、どこへ行くにも何をやるにも一緒というこの二人を、他の一高生たちは、一心同体と呼んでいたらしい。

塩野七生氏 ©文藝春秋

 芥川龍之介に「恒藤恭氏」と題した一文がある。四頁にもならない小品だが、もはや大正文学の旗手とされるまでになった三十歳当時の芥川が、若いころの恒藤恭との交友をなつかしんで書いた一文だ。これによって、芥川龍之介の一の親友は恒藤恭、ということが一般の人にも知られるようになるのだが、幾分かのからかいで味つけされたユーモアといい、センチメンタルに落ちないための自己制御の完璧さといい、読む人の心を温かい気分にさせないではおかない佳作にできあがっている。しかしそれを書く九年前、二十一歳の芥川は、大学は法科を選んで京都に去った恒藤に向って、自己制御なんて知ったことかという感じで、ありったけの想いをぶつけた烈しい手紙を送りつけていたのだった。

 恒藤恭にも、芥川の死後二十二年して書いた、「旧友芥川龍之介」と題した小冊がある。芥川から送られた手紙は、それにはとりあげられていない。ただ、こんなふうには書いている。

「大正二年六月、私たちは一高を卒業した。芥川はかねての志望どおり、東京大学の英文科に進学する考えであった。私はその一年前から読んでいた哲学書の影響を受けて、英文学研究の志を絶ち、京都大学の法科に入学することに決心した。

 その夏、私は松江に帰省したが、七月十七日付で芥川が送ってくれた手紙は、高等学校三年間の二人の交わりを回顧してつぶさに彼の感想をしるしたものであり、私にとっては最も思い出の深い長文の書信である。ただ私は、その内容を公けにしようとは思わない。この手紙に対して私の送った返答の手紙が偶然残っている。つまらないものではあるけれど、当時私が彼に対してもっていた心持をそのままあらわしていると思うので一部をぬき書きする」。これを書いた当時、恒藤恭は二十四歳。

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source : 文藝春秋 2023年2月号

genre : エンタメ 読書