龍之介・再び

日本人へ 第234回

塩野 七生 作家・在イタリア
エンタメ 読書 歴史

 前号で約束したように今回は、成績最優秀とて卒業式も待たずに松江の実家に帰っていた恒藤恭に送った、芥川の手紙を紹介する。自作となれば自己制御という名の努力は忘れないのが作家だが、私信ではそんなことは忘れる。それにこれは、まだ作家にもなっていない二十一歳が書いた私的な手紙。省略は抑えて、なるべく全文を紹介したい。

芥川龍之介、東京帝大入学当時 ©文藝春秋

「卒業式をすませてから、何という事もなくくらしてしまった。人が来たり人を訪ねたりする。ほかの人に遇わない日は一日もない。本も二、三冊読んだ。もうすぐ学校がはじまる。それがいやで仕方がない。いやだという中には新しい大学の生活という不気味な感じが含まれているのは云うまでもないが、同時に、きみがいなくなった後の三年のさびしさを予感するのも、いやな感じを起させる大きなfactorになっている。

 顧ると、自分の生活は何時でも影のうすい生活のような気がする。自分のオリギナリテートの弱い、始終他人の思想と感情とからつくられた生活のような気がする。「ような気がする」に止めておいてくれの(ママ)は、自分のVANITY(虚栄心)であろう。実際、こうしたみすぼらしい生活だとしか考えられない。たとえば自分が何かしゃべっている。しゃべっているのは自分の舌だが、舌を動かしているのは自分ではない。無意識にこれをやっている人は幸福だろうが、意識した以上こんな不快な自己屈辱を感ずることは外にはない。此(この)いやさが高じると、随分思い切ったことまでして自己を主張してみたくなる。自分はここで、三年間の自分の我儘(わがまま)に対するきみの寛大な態度を感謝するのを最適当だと信ずる。

 自分は一高生活の記憶はすべて消滅しても、きみと一緒にいた事を忘却することは決してないだろうと思う。こんな事を云うと安っぽい感情のエキザジェレーション(誇張)のように聞えるかもしれないが、自分が感情を誇張するのを軽蔑している事はきみも知っているだろう。とにかく自分は始終きみの才能の波動を、自分の心の上に感じていた。此事はきみが京都の大学へゆくことになり自分が独り東京に残ることになった今日、殊に痛切に思い返される。

 遠慮なく云わせてくれ給え。自分ときみとの間には感情の相違がある。感覚の相違がある。きみはきみの感情なり感覚なりをjustify(正当化)するためによく説明をする(自分はこれを好かない)。僕も同様に説明することができる(この相違からきみと僕の間の趣味の相違は起るのだが)。こうした相違は横の相違で竪の相違ではないからである。対等に権利のある相違で、高低の批判を下すべからざる相違だからである。

 しかし、理智の相違はそうはゆかない。自分がきみの透徹した理智の前に立ったときに、自己の姿は如何に曖昧に如何に貧弱に見えたろう。きみの論理の地盤は、如何に堅固に如何に緻密に見えたろう。これは思想上の問題についてばかりではない。実行上のきみのabilityの前に、自分は如何に自分の弱小を感じたろう。(六行略)

 きみは、自分が自他の優劣を最明白に見ることができる鏡であった。自分は誰よりもきみを評価する点に於て誤らないと信じている。きみと僕とは友人と友人との時より、或(あるい)は師と弟子との時のほうが多かったかもしれない(ただ幸いに、主と隷とにはならなかった)。きみの才能の波動を自分の心の上に感ずれば感ずるほど、自分のきみに対する尊敬と嘆称との念が増していったのは当然であろう。独之に止らず、自分はしばしば自ら顧みて、(殊にきみ以外の人に対している場合に)「自己の傀儡」が「きみの思想」を以て口をきいているのを発見した。(五行略)

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source : 文藝春秋 2023年3月号

genre : エンタメ 読書 歴史