物理学研究を行いつつ珠玉の随筆を多く残した東京帝国大学教授の寺田寅彦(1878〜1935)。自然界の美しさと科学の限界を見ていた彼の感性を、今こそ見直したい。
「ニュートンが一見捕捉し難いような天体の運動も簡単な重力の方則によって整然たる系統の下に一括されることを知った時には、実際ヴォルテーアの謳ったように、神の声とともに混沌は消え、闇の中に隠れた自然の奥底はその帷帳(とばり)を開かれて、玲瓏(れいろう)たる天界が目前に現われたようなものであったろう」
これは「科学者と芸術家」の一節。なんと的確で、流麗な文章だろう。また別のときは、春の空の雲に太平洋のかなたを遠望し、空いた電車に乗る方法を考察し、ガラスの割れ目やキリンの斑模様の生成、線香花火や藤の実が飛び散るしくみを論じた。若き日は欧州に留学、X線と結晶の研究でノーベル賞に迫る業績を上げる一方、夏目漱石の門下として『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルとなり、軽妙洒脱な文章をものして、科学エッセイストの嚆矢となった。当時、寺田を読んで初めて科学に興味を持ったファンも多数いた。
彼の文章は、単に才気煥発な秀才が、余技として科学啓蒙をしているのではないことがわかる。そこには諦念があり悲哀がある。科学は美的享楽であり、そのことについての含羞がある。あるいは科学の限界についての懐疑がある。この感性は、今こそ再評価されるべきものだ。
私生活では、結婚した若き妻に一度ならず二度も先立たれた。40になってから研究室で吐血して倒れ、療養を余儀なくされた。随想を書き始めたのはこの頃のことである。
冒頭に引用した文章には、相対立するようにみえる科学と芸術が、実は、同一の美を希求していることが端的に述べられている。これは寺田自身の確信でもあったろう。ここに彼の類まれなる特質がすべて凝集されている。優れた科学者であるにもかかわらず(否、であるがゆえに)叙情的な詩性を併せもった人。
そういう人に私もなりたい。
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source : 文藝春秋 2023年1月号