零式艦上戦闘機の設計主任を務めた航空技術者の堀越二郎(1903〜1982)。『零戦燃ゆ』などを著すにあたり、氏に取材を重ねたノンフィクション作家の柳田邦男氏には忘れられないひと言がある。
日中戦争後半から太平洋戦争敗戦に至るまで実に5年間も、日本海軍の主力戦闘機の役目を担わされた零戦を生んだ設計者とは、どのような発想をする人物なのか。零戦の「生と死」をどのように見ていたのか。その肉声を聴いて記録したい。
そんな関心から堀越二郎氏に、十数回のべ数十時間にわたるインタビューをしたのは、戦後30年余り経った1975年から80年代初めにかけてだった。最初にお会いした時、氏は72歳になっておられたが、背筋を真っ直ぐに伸ばして座り、低い声でとつとつと語り、眼鏡の奥の眼差しは終始やわらかだった。
特に零戦の前身の九六式艦戦試作機を、昭和10年に31歳で完成させ、欧米列強の戦闘機を上回る性能を実現した時の設計上の秘策や、次の零戦で圧倒的な空戦性能を達成するために費した技術的な苦労の話では、時折紙にペンで図を描いて、キメ細かく技術的な説明をしてくださった。ペンを走らせる右手が少しふるえるのを左手でおさえて図を正確に描こうと努める姿に、私は正確さを疎かにすまいとする氏の設計者スピリットを感じ感銘を受けた。
戦争後半になると、米海軍は零戦の2倍の馬力のエンジンと強靭な防弾装置を付けたグラマンF6Fなどを開発して大量に前線に投入し、零戦は悲惨な運命を辿る。その情報に接した時、堀越氏は自らにこう吐いたと率直に話された。
「我、過てり」――と。
零戦の高速性能を上げるためには、他社のものでもより高い馬力のエンジンを装備すべきだったのに、会社の営業的配慮からそうしなかった悔いだ。根本的には、日本のエンジン技術の遅れと工業生産力の低さ、そして軍の「防弾より攻撃力」の戦術思想が致命的だったのだが、この問題は現代日本の危機管理の未成熟に通じるものだろう。
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source : 文藝春秋 2023年1月号