かっこよさと無縁の毒々しさが尊い
昭和の街角を毒々しいピンク映画のポスターが彩っていた時代。「文藝春秋」の読者なら覚えていらっしゃるだろうか。
もう二十数年前のこと、ピンク映画のポスターがまとまってオークションに出て、運良く購入できたのを元に『Generation SEX ピンク映画のポスター世界』(アスペクト、2000年)という変わった本をつくったことがある。
ピンク映画は映画のジャンルとしては「ポルノ映画」であり、「ピンク」とはマスコミがつけたニックネームだ。なぜポルノではいけないのかといえば、ピンクとは基本的に独立系成人映画――つまり日活、東映、大映、東宝、松竹というメジャー5社に属さない小規模な製作・配給会社によってつくられた、いわばインディーズのポルノ映画を指す業界用語だから。
1962(昭和37)年の『肉体の市場』から始まったピンク映画は、下降線を描いていった大手映画産業とは対照的に、爆発的な勢いで全国に広がっていく。1964年の東京オリンピックを機に急速に普及していったカラーテレビと、その時期は見事に重なるのだが、とにかく62年には全国に500館あったピンク映画専門上映館が、2年後の64年には1500館にまで増えていたという。そして製作プロダクション(エロダクションと呼ばれた)も、64年に10社が98本を製作・配給していたのに対して、翌65年にはなんと60社が、220本もの作品をリリースしている。この年、日本映画のおよそ40%がピンク映画だったという数字から、当時の勢いがわかっていただけるだろうか。
ちなみに「ピンク映画」の名付け親は、当時夕刊紙『内外タイムス』の文化芸能部記者だった村井実さん。惜しくも2004年に他界されているが、著書『はだかの夢年代記 ぼくのピンク映画史』(大和書房 1989年)によれば、1963年の『情欲の洞窟』ロケ取材記を書くにあたって、「ブルーフィルムではなくて、セックス描写は、まあ、ピンク色の程度の映画、という意味だった」という、わかったようなわからないような(笑)説明をされているが、それ以降「ピンク」という色名は、すべての日本人にとって「エロ」と切り離せないニュアンスを秘めた単語になってしまったのだから、その功績は大きい。
日本の映画産業のピークは1960年だと言われていて、この年、全国には7400館を超える映画館があった。以後だんだん館数が減っていくのだが、ピンク映画が生まれ、花開いたのは、こうした時期でもあった。1956年生まれの僕としては、ピンク映画の最盛期はリアルタイムではぜんぜんないし、メジャー5社製ではないだけに名画座にかかることもほとんどないまま消えていったピンク映画の、実際のフィルムを観る機会もあまりなかったけれど、なぜ本をつくるほど興味が湧いたかといえば、それはなんともてきとうであらっぽくて、刺激的でチャーミングなポスターにすっかりこころ奪われたからだった。
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source : 文藝春秋 2025年2月号