第102・103代内閣総理大臣の石破茂氏は政界無類の鉄道好きと知られている。鉄道旅行がテレビ番組になるほどの旅好きでもある。その石破首相の「鉄道二大感動」とは、鳥取から東京の間で乗車した山陰線の特急「まつかぜ」と夜行列車「出雲」だったという。日本全国に鉄道網が広がるが、東海道を軸とする東西移動は太い幹となっている。その移動には、時代をこえた意味が潜んでいる。ここでは、日本列島を西へ東へと動く政治リーダーに光を当て、そのくつろぎと高揚の中に、徐々に近代化を遂げていったこの国の政治を見渡してみたい。
東京なら東京、関西なら関西という場に根付く政治というものがある。この二つの間を「時の人」である政治家が動けば、その動静は注目の的となり、政治家たちは鉄道の車中や駅で、発信力があることを十分意識しながら高揚し、決め台詞をここぞとばかりに言い放つ。こうした権力の動きを伴う言葉が、人々の注目を集めることで政治の磁場を変える。日本全国の旅路の中で、東京・大阪間の東海道の旅は、動く政治の舞台であった。
(1)「西下」する時の人
1913年12月7日の東京朝日新聞には、「西下(さいか)せる原内相 汽車中の雅懐」と題する記事がある。第1次山本権兵衛内閣の内務大臣・原敬への取材記事である。第1次憲政擁護運動により第3次桂太郎内閣が倒れた後、登場した海軍のリーダー山本権兵衛が首相となり、与党立憲政友会を手中に収めつつあった原は、重要閣僚として内閣を支えている。とかく角があり、相手を論難するのをやめないのが政治家原だった。
記者たちは、畝傍御陵(うねびごりょう)改修道路視察のために、「西下」した原内相を奈良駅で出迎え、同乗した。すると論破好きだったはずの原は居住まいを正して、「特別連結の一等車内白髪の内相はフロックコートの膝を撫しつヽ静に語る」。まず大正天皇の畝傍御陵参拝を前に、道路と橿原神宮内苑を検分する予定だと原は語り、ついで先年政界を揺るがした陸軍の増師問題は「最早済んだ」と「無髯の顋を横に撫でつつチョッと窓外に眼をや」る。しきりに話題をそらす内、こんなゆるんだ場面となる(以下引用は適宜わかりやすく、句読点・かなづかいなど現代風にしている)。
給仕が運ぶ紅茶を受取り菓子を摘みつつヤー大分詰め込んだナ如何ですと笑いに紛らす……(中略)……やがて桜井駅附近に来るや傍の紙片に鉛筆を走らし「秋寒し寺一軒の百万家」と書き、同行の久保田土木、井上神社両局長に示して満面得意溢るるばかり。やがて列車は畝傍駅に着いた。
車内で天皇の予定の前さばきだとつつしんで語るところから、政界の話題へと転じつつ次第に緩んだ原は、最後は一句作って得意がる。これが、東京を離れて奈良で気分転換を図った政治家原である。日記によれば、橿原神宮参拝後の原は、郡立教育館で訓示演説をし、集まった町村長から地方の実情を聞き取り、奈良のホテルに投宿後、奈良県知事の晩餐に招かれた。翌7日は、奈良県庁で職員と面会し、物産陳列所、東大寺大仏殿を訪問した上で、奈良市長の午餐に招かれ、夕刻京都経由で帰京の途に就いた(1913年12月6日,7日条、原奎一郎編『原敬日記 第3巻』福村出版、1965年、370頁)。
ここで注目したいのは、「西下」という言葉である。東京から奈良に向かう旅は西への旅だが、それは「下り」なのである。平安時代の古典『伊勢物語』で、歌人の在原業平をモデルとする主人公は京都から逃げるように東へ旅する。その「東下り」の途中、三河で詠んだのが「からころも着つつなれにし妻しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思う」であった。だが大正時代となると、政治家原敬は西に下り、俳句を作るのである。
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