悪魔になろう。世間から憎悪され抹殺されるような存在に。でもいきなりそんな話を東大五月祭ですると、怒りだす人が出そうです。この講演会場の外では拡声器で私の存在に抗議している人もいるようですし、ふつうで真面目な話から始めましょう。準備運動です。
それはそうと、眠いです。今も昔も睡眠障害気味で、朝起きることができず、遅刻ばかりしています。今も午前中の予定はほとんど入れませんし、中高生の頃はほとんど授業に行かず、行っても机に突っ伏して寝てるだけでした。
だから他人に教育論を語れるような立派な人間ではないのですが、何を勘違いされたのか日本の教育について話してほしいと依頼してくる方がちょくちょくいます。今回もそうです。東大のような日本のエリート高等教育について話してほしい、と。だから私なりの認識と指針を描いてみたいと思います。ただ、珍しく午前中から起きて眠いので、主観と客観の混じった、エビデンスなのか論理なのか妄想なのかグレーな話ばかりします。どうか疑い深く聞いていただければと。「先生」が間違っていたり無知だったりするのが大学という場所ですから。
大学教育といっても無数の切り口があります。まずは入り口、「誰を学生として入学させるのか」という大学入試から考えてみましょう。
入試では二つの欲望が衝突します。透明性と多様性の衝突です。透明性の欲望は「合否の線引きを透明で公平で誰もが納得できるものにしたい」という発想です。いい例がペーパーテストの点による入試で、合格者がどんな基準で選ばれたのか、誰にでも分かる点数で説明できます。どんな生まれの人でも試験の点さえ良ければ逆転できるという公平性もあります。
しかし透明性には犠牲が伴います。多様性です。「試験の点数みたいな単純すぎる指標に拘わらず多様な学生を採りたい」という欲望ですね。そもそも試験の点はごく狭い能力や知識を測るものでしかありません。五輪でメダルを取っても試験の点には換算されませんし、人の目を気にせず自分の信念に突き進むサイコパス性は測れませんし、TikTokでバズっても1点にもなりませんし、人に愛されるキャラも測れません。だから試験以外に秀でた、多様な才能や性格を大学に取り込みたいと考えるのも自然なことです。
さらに試験でいい点を取れるのは一部のたまたま頭脳や教育環境に恵まれた子ばかりになることが多いです。アメリカでも日本でも、たまたま生まれ育った環境の貧富がその後の進学先を左右し、教育格差や経済格差が世代を超えて伝播してしまっているとよく嘆かれます。
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